*      *      *



 半ば放心していた少女を、引きずるように私の部屋に連れてきてから、小一時間が過ぎた。

 血まみれの女子高生が夜の路上に座り込んでいるのを誰かに見られたら、どんな騒ぎになるかわかったもんじゃない。それに何よりやっぱり……放っておけなかったのだ。

「ねェ、コーヒーに砂糖はいくつ?」

「あ、いえ、結構です……」

 シャワーを貸してあげると、少女はいくぶん落ち着いたようだった。

 湯気の立つカップを彼女の前に置いてやり、あたしはこう彼女に話し掛けた。

「インスタントで悪いけど……まッ、多少は気持ちがほぐれるわよ」

「すみません、御迷惑をおかけして……」

 うつむいて謝る少女。こうして向かい合って座ってみると、決して大きい方ではないあたしより、さらに小柄で華奢だ。腕なんかは掴めば折れてしまいそうで、まるで人形みたい。貸してあげた着替えの服も、あちこち布がだぶついている。

 あたしは、彼女の身元にちょっとした心当たりがあった。着ていたセーラー服に見覚えがあるのだ。……いや、見覚えがあるも何も、それはあたしが二年前まで毎日袖を通していた母校の制服なのである。

「あなた、真神の生徒でしょ?」

 あたしの問いに、彼女は初めて顔を上げた。

「えっ……」

「あたしも、あそこのOGなのよ。二年前に卒業した、遠野杏子っていうんだけどね」

「遠野……。もしかして、新聞部の部長だった……?」

「おッ。あたしの名前を知ってるとは、なかなかやるわね」

「ハイ。図書室に置いてある真神新聞のバックナンバーに、遠野先輩の名前が……」

 どうやらこのことで、彼女の警戒心はだいぶ和らいだらしい。やはり、どんな形であれ名は残しておくものだ。

   わたしは、1年A組の美香月 巴(みかづき ともえ)といいます。……すみません、遠野先輩。この服は洗って返しにきますから……」

 あたしは、横の椅子にかけられた彼女のセーラー服を横目で見た。

「こっちは、クリーニングでも落ちそうにないわね……」

 ここまで血が染みてしまっては、どうしようもないだろう。

「良かったら、あたしのお古をあげようか? まだちゃんと残してあるのよ。制服姿の方が潜入しやすい場所もあるし   おっと」

 巴という少女は、静かに首を横に振った。「いえ、家には予備がありますから」

 そして巴は、血まみれのセーラー服を哀しげに見つめた。

「この制服だけは、汚したくなかったのに……」

 そのまま黙り込む巴に向かって、あたしは慎重に本題を切り出した。

「今夜みたいなことが、しょっちゅうあるのね?」

 巴は、しばらく答えなかった。ややあってから、彼女はこくんとうなずいた。

「ふーん……」

 あたしもそれきり、何も聞かなかった。やがて巴の方が先に口を開いた。

「遠野先輩は……驚かないんですか? あれを目の前で見たのに……」

「そりゃ、驚きはしたけど……でも、こんなことが初めてってワケじゃないから」

「え……?」

   何人か、知ってるのよね。あなたみたいな《力》を持った人間を」

 巴は、信じられないといったような顔をした。

「まさか、そんな……」

「こらこら。あたしはこれでもジャーナリストの卵……“真実”は武器であり商売道具よ。だいたい、こんなことであなたを騙して何の得があるっていうの?」

 巴は顔を上げた。そして、あの奇麗な黒目がちの瞳であたしを見つめ、意を決したようにこう言った。

「遠野先輩。わたしの話を、聞いてくれますか?」

 彼女は左手をあたしの前に差し出した。それは今も白い包帯に包まれている。

 ギプスをしているわけでもなし、首から吊るしているわけでもなし、骨折ではなく火傷か何かだろうと最初は思っていた。だがどうやらこの左手が、彼女の《力》に深く関わっているらしい。

「……見てください、遠野先輩」

 彼女の右手がするすると動き、包帯をはずしはじめた。  その下から現われたのは   

「それは……」

 巴は、あらわになった左手の甲を、あたしに向けて差し出した。

 そこには、刺青のような、人面瘡のような、紋章のような……何とも奇妙なものが浮かび上がっていた。

「二、三年前に、突然これが浮かび上がってきたんです。それから、夜になるとときどき、今日みたいなことが……」

 あたしは、おそるおそる巴の左手を取ろうとした。そのときだった。



<不用意に我に触れぬ方がいい、娘よ>



 くぐもったような男の声が、部屋に響いた。あたしは驚いて出していた手を引っ込めた。

「な、なに?」

<我は“月読”……。美香月との血の契りにより、巴を守るものだ>

 どうやらその声は、巴の左手の紋章から発せられているらしかった。

「わたしを守る、ですって!?」 巴がヒステリックに叫んだ。「あんな化け物に襲われるようになったのも、あなたが“出て”きてからじゃない……! あなたがあれを呼んでいるんでしょう!?」

「ちょ、ちょっと巴ちゃん、落ち着いてッ」

「心が休まるときもなく、化け物の血で身も心も汚されていく……。それがあなたのいう『守る』ということなの……!?」

<それは違う、美香月の裔(すえ)よ。お前の血の目醒めにともない、我が現われたにすぎない>

 少し事情が読めてきた。元凶がどちらにあるにせよ、あの事件が   龍脈の乱れが《力》を発現させたのだろう。

「ねェ、“月読”さん。ちょっと聞いてもいいかしら?」

 あたしはそう尋ねてみた。

<……。妙な娘だな。《力》を持たぬくせに、なぜ我を恐れぬ?>

「まぁ、こっちにもいろいろ事情があってね。それより、『美香月の血』って、いったい何なの?」

 “月読”はしばらく黙り込んで   この表現が正しいのかどうか自信はないけど   それからゆっくりと話しはじめた。

<人間の中には、“魔”と関わることを宿命づけられた二種の血脈が存在する。一つは、“魔”にとって最大の力の源となりうる“贄”の血。もう一つは、“贄”を守り“魔”を討つ、“狩る者”の血だ>

 あたしは、一つの事件を思い起こしながら答えた。

「つまり、ヤマタノオロチとクシナダとスサノオの関係ね? 例えてみれば」

 “月読”は再び、少しの間 沈黙した。

<……。まったくもって興味深い娘よ。今の世では皆そうなのか?>

「そんなことはどうでもいいの。それで、巴ちゃんはいったいどっちなわけ?」

<どちらでもあり、どちらでもない。人間の中で唯一、“贄”と“狩る者”と双方の血を受け継ぐのが、美香月の一族なのだ>

「りょ、両方ッ? それで、どうなるの?」

<今宵のような夜は、現世と幽世とが重なり合い、接点に歪みが生じる……。“魔”がこちらに入り込む絶好の機会だ。“狩る者”としては、何か事が起こってからでは遅い。だから美香月は、自らの内に“贄”の血をとりいれたのだ。己の血をもって“魔”をおびき寄せ   “狩る”ために>

 巴が、いきなり立ち上がった。彼女の左手に向かって話し掛けているようなつもりだったあたしは、突然のことに面食らった。

「だからわたしは、このまま一生“魔”に狙われて……そして狩りつづけなければいけないの!? このまま、一生   !!」

<巴よ、お前は……>

「いやッ! もう聞きたくないッ! 顔も名前も知らない先祖のことなんか知らないわ……! わたしは、わたしは……!!」

 巴は、血まみれのセーラー服を手に取った。

「遠野先輩。……わたし、真神学園に憧れの先輩がいたんです。どうしてもその人と同じ高校に行きたくて、一生懸命がんばって、やっと真神に入れたのに……!」

 セーラー服を握り締め、目に涙を浮かべながら、巴は続けた。

「こんな三日月の夜は、いつも人気のない場所に一人で行って、そして血にまみれて帰ってくる……。他のみんなは楽しく高校生活を過ごしているのに、わたしだけ、わたしだけ   !!」

「巴ちゃん……」

「誰も近づけられなくて、誰にも近づけなくて、いつも一人で……」

 彼女の“左手”から、グシャグシャになったセーラー服がばさりと床に落ちた。

「わたし……この制服だけは、汚したくなかったのに……」

<悪いが   お前が泣こうがわめこうが、我と美香月との契りは揺るがない>

 “月読”は、冷たくそう告げた。

<ましてや“魔”は、お前の私情になど構ってはくれぬ>


 ……と、巴の左手の紋章から、血が滲み出した。それは見る間に流れとなり、巴の指先を伝っていく。


<我がいようといまいと、美香月の“血”の匂いは、奴らを引き寄せる極上のエサなのだから……>


 ぞくり、とした。

 二度目だけに、より鋭敏に感じる。さっきと同じ不吉な感覚が、ゆっくりと近付いてくるのがわかる。

「巴ちゃん……」

 あたしは、カメラをとりだした。怪訝そうな顔をする巴の、血の流れる左手を素早くファインダーにおさめ、シャッターを切った。

「……! 遠野先輩、何を……!?」

「気にしないで。公表したりはしないから。ただ撮ってみただけよ」

「そ、そんな……ッ!」

「巴ちゃん、あなたの気持ちは痛いほどよくわかる。でも、どんなに隠したって、目を背けたって、あなたに《力》があるっていう事実は変わらないんじゃない? ……このフィルムの中の『現実』みたいにね」

「……」

「あたしは客観的な第三者だから、この際テッテー的に無責任なことを言わせてもらうわよ。あなたがそんな調子じゃ、いつまでたっても何も解決しないんじゃないの?」

 それからあたしは、声のトーンを落として、こう続けた。

「あたし、正直言って羨ましいのよ、あなたが。……これまで何度も何度も何度も、《力》がないせいで悔しい思いをしてきたあたしにしてみればね」

 《力》を持った仲間たちが闘っているのに、自分だけ何もできない。本当に、あたしにとってそれがどれだけ歯がゆかったかわからない。

 あたしの言っていることは、巴にしてみればやはり、とんでもなく無責任に聞こえるのかもしれない。

 けれども、《力》を持たないからこそ、あたしが厳しい言葉を投げかけなければならないのだ。自惚れかもしれないけれど、それが《力》なき者としてのあたしの業だと思う。

    それがこの二年間、“手記”をまとめながらあたしが出した答だった。

「巴ちゃん、あなたには《力》があるわ。これから、“何か”ができるのよ。あたしたちには死んでも真似できない“何か”を」

「遠野先輩……」



 その刹那、何かが砕けた。



「……出てきたみたいね」

 全身が総毛立つのを感じる。

 “それ”は、あろうことかあたしの部屋の中に、すでに半分ばかり姿を現そうとしていた。

 いったい何と形容すればいいのだろうか。中途半端に馴染みのある生物のパーツが使われているだけに、余計に不気味さが増している。猿のような顔、鷲のような前肢、肉食獣を思わせるたくましい後肢……。見慣れない点とい言えば、天井につかえてしまいそうなほど巨大だということぐらいだろうか。

 本で何度か読んだことがある。   (ぬえ)だ。

「遠野先輩、わたし……」

 鵺はついに虚空の中から全身を現し、ゆっくりと巴に近付いていく。その鋼のような体毛に触れた蛍光燈が弾け飛び、室内は薄闇に包まれた。

 闇の中で、鵺の息遣いと、唾液のしたたる音だけが聞こえる。

 ようやく目が慣れてきたあたしは、巴の姿を探した。……鵺はすでに巴のすぐ近くに迫っていた。

 巴は反射的に左手を振り上げた。しかし今回はあの漆黒の鎌   “月読”は発現しない。

 あたしは慌てて叫んだ。「ちょっと、“月読”さんってば! 何やってんのよッ! 巴ちゃんを守るんじゃなかったの!?」

 鵺の細長い舌が、巴の頬をなめずりまわすのが見えた。しかし巴は、ただ静かに、されるがままになっている。



「……遠野先輩」



「え?」

「わたしがここで殺されたら……この化け物は次に遠野先輩を狙いますよね……」

 先ほどまでの声音とは違う。闇の中、巴の言葉は凛として響いた。

「どうせ、逃げても他の人を巻き込むだけなら   こんな“汚れ”ぐらい」

 巴は、左手をぎゅっと握り締めた。

「お願い……《力》を貸して、“月読”……!」

 青白い光があたりを包んだ。たじろぐ鵺に向かって、巴は左手を突き出した。   その手には、大鎌が握られている。

<そうだ、巴。それがお前の使命だ。どこへ逃げようと奴等はお前の血を嗅ぎ付ける。道はただ一つ   狩られる前に、“狩れ”>

 突然、耳をつんざくような怪音が響き渡った。鵺が、哭いたのだ。

 そして鵺は、巴に飛び掛かった。しかしその前に“月読”が、巴と鵺の間の空間を切り裂いた。

 ふッ   と、巴の姿がかき消えた。いつの間にか彼女は、鵺の背後に立っていた。

<闇を切り裂き、影を渡る……それが我の《力》だ。目の前の血を啜ることしか頭にない、貴様のような低俗な“魔”が、いかで我に勝てるものか>

 巴は、左手で構えた大鎌の柄に、しっかりと右手を添えた。

<我は夜を統べる“魔”   “月読”。宿主が我の《力》を振るうたび、ほんのわずかずつの美香月の血を報酬として得、美香月の当主を守り続ける……それが契りだ>

 漆黒の刃が、闇の中に弧を描く。

<忘れるな、巴。   我は、お前を守る>

 

*      *      *



「ごめんなさい、遠野先輩。壊したものは弁償しますから……」

「あら、いいのよ。こっちも滅多にない経験させてもらったしね」

 ……“月読”に斬られた鵺は、血一滴残さず消滅した。思えばあの返り血は、巴の中の迷いを象徴していたのかもしれなかった。

「そうだ、巴ちゃん。あなたにいいものを貸したげるわ」

 懐中電灯の明かりの中で、あたしはそう言いながら、棚から分厚いファイルの束を取り出して巴に手渡した。

「遠野先輩、これは……?」

「さっき話した、私の仲間たちの記録よ。あなたにとっていろいろと参考になると思うし……何しろこの遠野杏子の手記なんだから、面白さも保証付きよ」

 それを聞いて、巴は初めて……クスッと笑った。

「あ、それから、これがそいつらの住所と電話番号ね。中には連絡のつかないバカも若干名いるけど、いちど相談に行ってみるといいわね」

 ファイルを受け取って、巴は、ぴょこんと頭を下げた。

「本当に……ありがとうございます、遠野先輩」

    帰り際、あたしはもういちど彼女に声をかけた。

「あッ、そうそう……。さっき撮った写真、処分しとくから安心してちょうだい」

 巴は振り向いて、微笑みながらこう言った。

「いえ……記念にどこかに飾っておいてください」



*      *      *



 それから二週間が過ぎ、あたしは今こうしてこの文章を記している。あれ以後、彼女からの連絡はない。

 もしかしたらあたしは、彼女に過酷な運命への選択をさせてしまったのかもしれない、とも考える。

 だけど、間違ったことをしたという思いはない。

 進む道がどんなに厳しく険しくても、支えてくれる仲間がいれば、最後にはどうにかなるものなのだから。



    電話のベルが鳴っている。たぶん、彼女からのような気がする。



  

弧月譚・了  



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<おまけ>

何をカンチガイしたのか、キャラクターデータです(^^;


美香月 巴 (みかづき・ともえ)

真神学園1年A組 美化委員会所属


装備武器:比礼(ひれ)・・・“月読”の力を完全解放すると巴の肉体・精神に負担がかかりすぎるため、
   普段は力量に合わせ、左手に巻いた特殊な布で霊力を制御する。

(本文中では包帯なしで《力》を使っていますが、これは巴の精神がきわめて高揚した状態だったため・・・って、別にどうでもいいことだけど)


大鎌“月読”で攻撃するため、射界・射程ともに広いが、
消費する行動力が大きいのが難点。


<技>

『夜走ノ狩リ』・・・“月読”で敵を切り裂く

『闇ノ帳』・・・見切り技。光属性を無効化。

『影渡リ』・・・障害物・敵・地形・方向などを一切無視して数マス移動し、プログラマーを困らせる。

『血ノ契リ』・・・生命力を削り、羅刹・金剛状態になる。

 

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