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東京魔人学園 弧月譚




 この“手記”に新たな章を付け加える日が来ようとは、さすがのあたしにも予想できなかった。

 あの記録と同様、この文章も、もとより誰に見せるというあてもない。見せたところで信じてもらえないことはわかっている。

 しかしこれは、確かにあたしと   そしてこの“東京”が体験した出来事なのだ。


 ……あのときと、同じように。



*      *      *



    三日月だ。


 夜空を見上げて、あたしは何気なくそうつぶやいてみた。

 それからふっと自分の指先に目をやり   「爪のように細い月」とはうまい表現だ、などと思う。

 あたしは、尊敬する女性ルポライターのアルバイト助手として、ちょっとした取材をこなしてきた帰りだった。陽の長い夏とはいえ、この時間だと辺りはもうすっかり暗くなっている。

 大学進学を機に一人暮らしをはじめたあたしのマンションは、駅から歩いて十五分のところにある。不便といえば少し不便だけれど、まだまだ親のスネかじりの身としては、それほど贅沢も言っていられない。

 生暖かい風が吹き、汗ばんだ肌にからみついていった。

(早く帰って、シャワー浴びよっと)

 そんなことを考えながら角を曲がると、急にまわりが暗くなった。……ここだけ、街灯が壊れているのだ。もういちど空を見上げてみると、ちょうど月も雲に隠れたところだった。

 本当に、暗い。

 闇に対する恐怖というものは、度胸だの理性だので拭いされるようなものではないのだろう、と思う。数々のオカルトめいた事件に首を突っ込んできたあたしでさえ、そうだ。それはもっとそう、本能的な“畏れ”とでも言うべきものなのだ。

 また、風が吹いた。   ぞくり、とした。

 風に乗って、あたしの鼻先をかすめていったのは……間違いなく、血の匂い。

 この先に、“何か”がいる。霊感のないあたしでもわかる。気配と、そして不吉な予感。こんな陳腐な言葉でしか表現できないのがもどかしいほど、“それ”は強烈にあたしの五感を打ちつけてくる。

(ちょっと、なんなのよ、コレ……)

 いつでも逃げ出せるよう、足元を確かめながら、あたしはバッグの中のカメラに手をかけた。

 また、風が吹いた。

 今度の風は、新たな血の匂いを運ぶかわりに、月にかかる雲を払ったらしい。淡い光があたしの目の前に差し込んだ。

 そこにいたのは、あたしの予想を大きく裏切るものだった。

 通りの向こうに、電柱にもたれかかるようにしてたたずんでいたのは……セーラー服姿の一人の少女だった。

 少女の方もあたしに気付いたらしい。伏せられていた瞳が大きく開かれ、唇が動き何かを叫ぼうとした。

 次の瞬間、彼女の口から発せられた言葉は、またしても思いもよらぬものだった。

「逃げてください! ……ここにいては、いけない……!!」

「えッ……?」

 戸惑うあたしに向かってその少女は、あたし以上に困惑した様子で必死に訴えかけた。

「お願いします! もうすぐここは、血で穢れてしまうから   

 予想外の状況に予想外の反応を重ねられて、かえってあたしは落ち着きを取り戻した。 人間とは、そういうものだ。あたしは素早くその少女を観察してみた。

 小柄な少女だ。肩口で奇麗にそろえられた黒髪が、どことなく、潔癖そうな性格を感じさせる。その点だけを除けば、とりたてて特徴のないごく普通の少女にしか見えないけれど……ただ目をひくのは、左腕に巻かれた真っ白な包帯だった。

 その白い包帯は、薄闇の中で明らかに“浮いて”いた。


    まるで、本来この場にあるべき“何か”を覆い隠しているかのように。




*      *      *



 悲痛な声音で叫んでいた少女の顔が、急に曇った。「駄目……もう来てしまうわ」

 彼女には悪いけど、ここまで思わせぶりな行動を見せつけられて、このまま帰れるワケがない……他人はどうであれ、少なくともこの遠野杏子は。

「ねェ、ちょっとちょっと」

 あたしが彼女に話し掛けようとしたそのとき。……彼女は突然、自分の右手で左手を押さえた。包帯が巻かれた左手を。

 それは、妙に不自然な動きだった。まるで、自分の身体ではなく、別の生き物をなだめるかのような……。

 少女は、瞳を地に向けた。長い睫毛と黒目がちの瞳が余計に彼女を哀しげに見せる。そして彼女は、しぼりだすようにこう言った。

「お願い、“月読 (つくよみ)”……。もう許して……」

 自分の左手を握り締める彼女の右手にグッと力が込められたのが、あたしにもわかった。

「こんな、人の見ている前で……これ以上、わたし、汚れたくない……!」

 ただの一人芝居には見えなかった。何よりあたしは、この感覚を良く知っている。彼女の左手から発せられる、青白い光のような、澄んだ鈴の音のような、不思議な波動を知っている。

 空気が震えた。

 それと同時に、少女は目を固くつぶって叫んだ。

   やめてッ、“月読”!!」

 彼女の右手が、自分自身の左手によって払いのけられた。風が、吹いた。手足を縫い止められてしまうような、冷たい風が。

 “それ”は、いつの間にかそこにあった。……少女の左手に。

 漆黒の   大鎌。ちょうどタロットカードの死神が手にしているような巨大な鎌を、少女の左手は無造作に握り締めていた。大きく円弧を描く鋭い刃は、闇の中でもなおひときわ黒く、濡れたように輝いている。それはあまりにも凶々しく……それでいてどこかしら清廉でもあった。


    三日月だ。


 まるで、夜空から切り取られた三日月の“影”だ。


「あなた、いったい……」あたしはためらいがちに彼女に声をかけた。

 意外にも彼女は、その異形の大鎌に関しては、特に驚く様子も怯える様子もない。彼女はただ、虚空の一点を凝視していた。

 そして彼女は、ちらりとこちらに視線を投げかけると、やはり哀しげな調子でこう言った。

「お願いします……退がっていてください。もうすぐ、“魔”が姿を現します」

「“魔”……?」

 今のあたしにとっては聞き慣れた言葉とはいえ、見知らぬ少女の口から言われると、やはり相当にショッキングだ。

 問い返そうとするあたしを、彼女は強引に右手で後ろに押しやった。力はさほどなかったが、その迫力に呑まれ、あたしは数歩あとずさった。

 次の瞬間、少女の左手が動き、音もなく大鎌が振るわれた……少女の前方の闇に向かって。

 あたしはそのとき、何かが切り裂かれ、砕け散るような音を聞いたような気がした。

 彼女が何を斬ろうとしたのか見極めようとして   あたしは絶句した。

 “何か”がいる。……いや、現われようとしている!

 漆黒の鎌が切り裂いた空間から、何かが這い出てこようとしている。


 何もないはずの虚空に、獣の眼のようなものが確かに光った。


 さきほどの不吉な予感の正体は、少女ではなく、“これ”だったのだ。

 静寂の中、荒い息遣いと舌なめずりのような音が聞こえだしていた。

 “何か”がいる。異界との狭間から、見えない闇の帳を開くかのように   

    鋭い爪を生やした腕が、ちょうどあたしの目の高さぐらいの位置に出現した。もちろんそのまわりには何もない。ただ闇が広がるばかりだ。そしてそれは少しずつ少しずつ、“こちら”に出てこようとしている。

 少女は静かに大鎌を構えた。

 けれども、素人目に見ても、彼女がその特殊な“武器”に習熟しているようには見えない。知り合いに薙刀の有段者である女の子が一人いるが、それに比べればまるで腰が入っていない。……そもそも、彼女の細く白い腕で、背丈をゆうに越える鎌を平然と持っていられるだけでも驚きなのだ。

「どうして……」

 彼女がポツリとつぶやいた。あたしは彼女の顔を見た。

 涙……?

「どうして、わたしだけが、こんな……」

 再び、闇の中に獣の眼が現われた。彼女は口をきゅっと結び、涙を浮かべた瞳でそれを見つめ返した。


「お願い   早く、死んで」


 包帯が巻かれた彼女の“左手”が、目にも止まらぬ速さで動いた。セミロングの黒髪が大きく揺れ、風を切る音とともに漆黒の刃が夜の中に大きな弧を描く。

 音にならない絶叫が響いた。ついで、何もないはずの空間から鮮血が激しく吹き出した。

 あっと思う間もなく、少女は真紅の返り血を頭から浴びた。

 その瞬間、彼女の身体からふっと力が抜けたようだった。ただ左手だけが、もういちど鎌を軽く振るっていた。刃にこびりついた血が、道の脇のブロック塀に真紅の飛沫を散らした。  あたしはとっさに彼女に駆け寄った。「ちょっと、あなた、大丈夫!?」

 彼女は押し黙ったまま、額にかかる血に濡れた前髪を指先でかきあげると……細い脚をさらけ出してアスファルトにへたりこんだ。

「また汚れちゃった……。嫌なのに。嫌なのに。嫌なのに。嫌なのに……」

 返り血に染まった凄惨な姿のまま、地面を見つめ、彼女はつぶやき続けた。

「どうしてこんな《力》があるの……? わたしは……嫌なのに」

 あたしは確信した。やはり彼女は、私が出会った連中と同じ   《力》ある者なのだ。



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