叫びは、この手が震えるほどに
「理事長!」〈門〉の理事コネリーが、背中の翼でぱたぱたと顔に風を送りながら言った。
「封印コード3Ehの復活を確認。“
世界樹 ”システムよりの情報です」樹状魔力ネットワーク、ユグドラシル・システム。学園に枝のように張りめぐらされた二種のケーブルにより、魔力と情報を瞬時に伝達・配給する、ラグナロック学園の生命線である。
<3Eh──中級妖魔エイラムか>
水晶球から低い声が紡がれだす。
<予言の通り‥‥そして我々の筋書き通りだな。地下五階のヴィジタルに伝えろ。勇者のパーティーを除き、生徒はすぐに全員退避だ>
[第八章 獣と人形は笑わない]
先頭を歩きながら、アーリィが言った。「悪の魔術師役の先生が、この階のどっかにいるんだよね」
検定の目的フロアだからか、あるいは先に来たパーティーが倒してしまったのか、この階にはモンスターの気配はない。アーリィはだいぶ気を抜いて歩いている。
「誰なんだろ。優しい先生だといいんだけどな。かなり手加減してくれるかもしれないし」
突然、最後尾のルージャが立ち止まった。
「どしたの、ルージャ?」
「あ、いえ‥‥」 少し慌てたような表情で、彼は言った。「さっきの部屋に忘れ物をしてきたみたいです。ちょっと取ってきますから、先に行っててください」
ルージャは、笑って手など振りながら、来た道を引き返した。しかし、曲がり角を折れてアーリィたちから姿が見えなくなったところで、彼は猛然と走りだした。
小部屋に飛び込み激しく扉を閉めると、ルージャは扉にもたれ、服のポケットから何かを取り出した。遠話石である。それは赤く明滅を続けている。ルージャはそれを握りしめ、念じた。
「はい、ルージャです。──なんですって!?」
思わず大声を上げてしまう。
「嘘から出たまこと、ですね。ほんの冗談のつもりだったんですが。‥‥あ、いえいえ、こっちの話です」
それからルージャは、しばらく静かに目を閉じていた。誰かからのメッセージを聞いているのだ。
「──わかりました。復活した妖魔と戦ってみろ、ということですね?」
平然と口にしているが、それがどんなに恐ろしい内容か、ルージャはよくわかっていた。
「お祖父様、一つだけ聞いておきたいんですが‥‥」 ルージャは少しためらったのち、言った。「これは、当初から予定されていたことですか? 僕はてっきり、ユウキ先輩を協調性に目覚めさせるのだけが目的だと思ってましたよ」
返事はなかった。ルージャはため息をついた。
「‥‥けっきょく、この学園にとっては僕も道具の一つに過ぎないというわけですか。わかりましたよ。そのかわり、危なくなったらすぐに救援をお願いしますよ」
彼は目を開け、遠話石をしまいこんだ。そして、ユウキがいるはずの方角に目を向け、つぶやいた。
「‥‥“勇者”って、いったい何なんでしょうね。ユウキ先輩‥‥」
* *
「ここかな‥‥?」アーリィはそろそろと扉を開いた。この階の面積から考えて、もうほとんどの部屋は見て回ったはずである。
中を覗いたアーリィは、パチンと指を鳴らした。「‥‥当ったりー♪」
半壊した台座の上に、黒ずくめの服で身を固めた、痩せた男が腰掛けていた。
見慣れない教師だ、とアーリィは思った。しかし、自分が学園の全ての職員を知っているわけはない。アーリィは構わず、明るく声をかけた。
「先生、来ましたよーっ! “勇者ユウキと仲間たち”でーす!」
ティーナが、後ろからアーリィに言った。
「あの、ルージャさんが来てからにしたほうが‥‥」
「うん、わかってるよ。だから予約しとくんだよ。その間に他のパーティーに先を越されないようにね。──先生、あと一人が来るまで、もう少し待ってくださいねっ」
できるだけ愛想良く、アーリィは頼んだ。男は黙ったまま、じっとアーリィを見つめた。無表情である。
「‥‥先生?」
男は、ゆっくりと口を開いた。奇妙にしわがれた声だった。
「あと一人が来ると、どうなるんだ? 貴様らに私が倒せるとでも言うのか?」
その台詞を聞き、クラウドが感心したように言った。
「ほう、なりきっているじゃないか。仕事とはいえ大変だな」
そのとき、部屋の外から走る足音が聞こえてきた。ルージャが部屋に飛び込んでくる。
彼は、座ったままの男を見て、肩で息をしながら言った。
「皆さん‥‥! まさかとは思いましたけど、そんな予想通りの大ボケをかまさないでくださいよ‥‥っ!」
「え? どういうこと?」
「あれはうちの教師じゃありません」 ルージャは男を指さした。「封印が解けて復活した妖魔、エイラムなんです!」
──静寂。
「‥‥ええーっ!?」 それを破って、アーリィが叫んだ。
「あれが、妖魔‥‥」 ユウキがそうつぶやき、黒服の男をじっと見つめた。「俺の倒すべき、敵‥‥」
ユウキは剣を抜き、前に進み出た。
「ユウキ先輩!?」
ルージャがユウキの腕を掴んで引き止めた。
「いけません。まだかなう相手ではありませんよ。いいから今日のところは撤退しましょう」
「悪いな、ルージャ」
ユウキは、ルージャの手を振り払った。
「‥‥俺は、こいつと戦わなくちゃならない」
「なぜです!」
ユウキは、感情のこもらない声で語りはじめた。
「俺には記憶がない。何もだ。もし今、外の世界に放り出されたら、生きていけないだろう。事情はどうあれ、この学園は俺の命を救ったんだ」
「ユウキ‥‥」
アーリィがその名を呼んだ。ユウキは答えない。
「‥‥食事も生活用品も提供してもらった。勇者だか何だか知らないけれど、何のゆかりもない俺にだ。その借りは返さなくちゃならない。でも、人の成長には限界がある。ここでたった一人の妖魔も倒せないようじゃ、これから世界を救うなんてできっこない。なら、この場で死んだほうがマシだ」
「ユウキ!」
アーリィは、もう一度叫んだ。彼が言葉を重ねれば重ねるほど、自分たちとの距離が開 いていくように思えた。
「人のカルマは、生きている限り雪ダルマ式に増えていく。誰かを傷つけ、生き物を殺し‥‥。それでも、少しでもその業を減らすために、恩を返すために、人はあがきながら生きていくんだろう。──俺は妖魔を倒すために、ここに存在している。それができなければ、俺はこの世界にとって必要のない存在になるんだ」
ユウキは、妖魔エイラムに向かって歩を進めようとした。ルージャが彼の前に回り込み、正面からユウキの顔を見て言った。
「わかりました。もう止めません。ただし、よく聞いてください。あいつを再度封印する方法があります。どうせやるなら勝ち目は多いほうがいいでしょ? 封印の魔剣を見つけるんです」
「封印の魔剣‥‥?」
ユウキが問い返した。わずかに彼の表情に、感情が戻ってきたようだった。アーリィは少し安心した。
「255体の妖魔にはそれぞれ、対応する魔剣があります。封印が解けたとき自動的に現れ、再び妖魔を封印する剣が。‥‥恐らく今回も、もうすでにこの近くに具現しているはずです。それを見つけられれば‥‥」
「どんな剣なんだ、それは」
「わかりません。封印の魔剣は、持ち主に合わせ自由に姿を変えます。だから、今どんな形をしているかは‥‥」
「──あのさ、ルージャ。横から口を出して悪いんだけど」 アーリィが言った。「その封印の魔剣って‥‥チューリップの彫られたピンクの剣ってこと、ない?」
ルージャは一瞬ポカンとした表情をした。そして直後に声を上げる。
「そうです、たぶん間違いありません!」
「この学園の作ったモノだからね。そんなことじゃないかと思ったよ」
「どうやら、心当たりがあるらしいな」 動きを見せず、ルージャたちの様子を眺めていた妖魔エイラムが、ゆっくりと台座から降り立った。
エイラムは憎々しげに言った。
「案内してもらおうか。もう二度と封印されるのは御免だ。あの忌ま忌ましい剣を、今度こそ叩き折ってくれる」
エイラムが、すさまじい威圧感を放ちながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
ルージャはくるりとターンし、妖魔と向かいあった。
「ユウキ先輩、早く魔剣エイミーの所に行ってください。ここは僕が食い止めます」
ユウキに背を向けたまま、ルージャは言った。
「僕を信じても損はさせないって言ったでしょ? ‥‥それを証明するときが来たんです。気にしないで行ってください。大丈夫、僕は普通の人間とはちょっと違いますから」 そして、彼は叫んだ。
「“龍人形態”、発動!!」
服を破り、背から一対の翼が飛び出す。亜麻色の髪からは見る間に二本の角が伸び、指の爪が鋭く尖り、鉤のように曲がる。
これが、神が龍人族に与えた力の一端だった。
ルージャはちらりとだけ、ユウキのほうを振り向いた。相変わらずの笑顔がそこにあった。
「僕がいる限り、死ぬための戦いはさせませんよ。勝つためになら僕はどんな協力でもします。仲間なんですから」
ユウキは駆けだした。他のメンバーもあとを追う。
「‥‥さーて、エイラムさん。舞台が整うまで、僕と付き合ってくださいな」
* *
地下五階、最初の部屋。術が解けたらしく、すでにルーナエの姿はなかった。かわりに壁にインクで恨み言が残されている。ユウキはそれに目もくれず、隠し部屋に踏み込んだ。
<ああ、マイダーリン! 帰ってきてくれたのね>
ピンクの剣が語りかける。
<エイラムが復活しちゃって大変なのに、ダーリンったら、あたしを置いて行っちゃうんですもの‥‥でも、もう安心よ。さあ、早くあたしを引き抜いてっ!>
ユウキは柄に手をかける。思い切り力を込めて引っ張ると、簡単に抜けたため勢いあまって後ろに倒れてしまった。
「なんだ。あっさり抜けるのか」
魔剣エイミーは、かすかに刀身を朱に染めた。
<それはね‥‥相手があなただからよ、ダーリン♪ きゃっ!>
ユウキは黙殺した。
「よし、早くルージャの所へ──」
「その必要はない」
答えるように声が響いた。試練場が、大きく振動した。ユウキたちの目の前で、巨大な火球が壁をぶち抜いていった。煙が晴れると、一直線に開いた穴の向こうに、ぐったりしたルージャを担いだ妖魔の姿が見えた。
クラウドがつぶやく。「まったく、派手なことをやってくれる‥‥」
「このぐらい、大したことはない」
すぐ近くで声がした。クラウドは慌てて飛びのく。一瞬で、エイラムは彼らのいる部屋にまで移動していた。
妖魔は、ルージャの身体を放り投げた。
「ルージャ!」
「大丈夫だ、殺してはいない。貴様ら人間は、激昂すると何をしでかすかわからんからな。もちろん何をしようと無駄なことだが、それでも予測不能なものは避けるに限る」
ティーナが、床に投げ出されたルージャに駆け寄った。
「ひどい傷‥‥」 ティーナはカードを取り出し、呪文を唱える。「汝、まばゆき輝きのコインに宿る魔力よ──正位置のカード『太陽』の導きに従い、その力を解放したまえ‥‥!」
ティーナの持つ金貨が砕け散り、光輝く金粉がルージャの身体に降り注いだ、見る間に傷が癒されていく。
それを見て、エイラムが言った。
「とは言え、こういうのも困りものだな。何度倒しても回復させられてはキリがない」
エイラムは右の掌をティーナに向けた。
「‥‥まあ、回復役からまず戦闘不能にすればいいことだが」
「させるわけがないだろう!」
クラウドが叫び、妖魔めがけて銀貨を投げつけた。
「汝、冷たき輝きのコインに宿る魔力よ──逆位置のカード『魔術師』の導きに従い、その力を解放せよ!」
呪文に応え、空中で銀貨が炎に包まれ、そのまま妖魔に向けて赤い直線を描く。
クラウドの“魔術炎弾”と同時に、アスカも印を結んだ。
「んー‥‥十二神将が一柱、
毘羯羅 に申し上げる! 五行“火”の力、彼の者に! ──やっちゃえ、( 丁亥 の術っ!!」( 二種類の火球が妖魔に襲いかかる。だがそれは、妖魔の肌に触れる直前で、弾かれ、消えた。
「こいつも──パトスを!?」アーリィが驚く。
「まったく、情けない」 エイラムは嘆息した。「炎の魔法とは、こういうものを言うのだ」
エイラムの掌に、禍々しいほどの真紅に揺らめく、炎が生まれた。
「ティーナ、逃げて!」
「嫌です。治療が終わるまで、私は動きませんわ!」
アーリィは絶句した。ティーナが他人の怪我や病気に敏感なのは知っていたが、それは僧侶科にいるせいだと考えていた。これほど強くこだわるとは想像もしなかった。
「私はどうなろうと構わないんです。けど、もう‥‥もう二度と、私の周りで人を死なせたくない‥‥!」
ティーナは、ルージャをかばうようにして魔法を行使し続ける。
ついにエイラムの腕から、炎の球が放たれた。しかし、間に飛び込んだユウキが、封印の魔剣でそれを受け流す。
「ほう‥‥。だが、甘い」 エイラムが指先を小さく動かした。
「──!?」
炎の球が軌道を変え、再びティーナに襲いかかった。迫り来る熱と光に、ティーナは我知らず瞳を固く閉じた。──しかし、予想していた痛みは襲ってこなかった。
ティーナは目を開け、振り返る。灰色のマントが目に飛び込んだ。
「クラウド‥‥さん!?」
仁王立ちで炎の球を受け止めたクラウドの、衣服の胸部が焼け焦げ、ヤケドを負った肉がのぞいている。
「‥‥昔、俺の友人が、俺を助けるために死んだ‥‥今のお前と同じようにしてな。ティーナ、残される者の辛さは、お前がいちばん良く知っているはずだろう‥‥」
「クラウドさん!」
「大丈夫だ。とっさだったが、俺の最強の防御魔法を張った。だがおかげで、精神力は底をつきやがってな‥‥。ルージャを回復させたほうが役に立つだろう」
「いえいえ‥‥」 ルージャが身を起こした。「僕も、おかげさまでもう大丈夫です。ずいぶん戦局が進んでしまいましたね。解説係としても、この戦いをちゃんと見届けなくては」
突然、エイラムが大声で笑いだした。
「何がおかしいの!」
「貴様らに決まっている。これだけ痛めつけられても、なお希望とやらを持っていそうな貴様らがおかしいんだよ。‥‥甘い、甘すぎるッ。貴様ら人間はいつも全く変わらんな!」
エイラムは笑いを止め、なぜか下を見つめた。
「そう、貴様らは知らない。我々の想いを、全く知らない。ふと気付いたときから地獄のような魔界に存在し、七百年の時をすごした経験があるか? その後の三百年を、封印され、解放されてはまた封印されの繰り返しで生きたことがあるか? 貴様らがいかに団結しようと、どんな策を用いようと、我々妖魔には決して勝てない! 何よりもまず精神力の質において、貴様らと私とは決定的なまでに違うのだッ!」
エイラムはまた顔を上げた。妖魔をにらみつけるアーリィの視線がそこにあった。
「黙って聞いてれば! 勝手なことばかり言ってんじゃないよ! ──そりゃボクたちは十数年しか生きてないし、魔界がどんななのかも知らない。だけどあんただって、ボクたちがどうやって生きてきたか知らないんだ。ボクや、ティーナや、クラウドや‥‥みんなの背負ってるものを侮辱する権利は、あんたにはないよっ!!」
アーリィは矢を放った。エイラムは余裕を保ったまま、同じ場所に立っている。矢は、クラウドの魔法と同じく、妖魔の手前で弾かれた──しかし妖魔もまた、わずかに後ろにあとずさった。
「なんだと‥‥ッ!?」 誰よりも驚いたのは、エイラム自身だった。「傷つけるには至らなかったとは言え──こんな未熟な人間の矢に、私が弾かれた、だと?」
ルージャが笑みを浮かべた。
「さすが、アーリィ先輩。早くもパトスに目覚めつつありますね」
驚愕し、呆然としているエイラムに、背後から剣が振り下ろされた。ユウキだ。エイラムはそれを間一髪でかわす。
「ルージャ」ユウキが呼んだ。
「はい?」
「お前は格闘にも精通してるみたいだから、敵を投げるときには何が大切かわかるだろう」
「ええ。小さな攻撃を当てたり、わざと空振りして反撃を誘ったり、フェイントをかけたりして相手を不安定な体勢に持ち込むこと──いわゆる“崩し”ですね」
「‥‥俺は今から、こいつを“崩す”よ。どんなに力の差が開いてようと、倒す方法はあるんだ。自分の強さが変わらないんなら、相手を弱くすればいい。‥‥もし俺が封印しきれなかったら、あとは頼む」
ユウキはそう言って、エイラムと対峙した。
「貴様が、今回の封印の魔剣の持ち主か」
「‥‥成り行きでね」
<いけいけダーリン! エイラムなんかポポイのポイよ♪ あたしを身体のどこかに突き刺してくれれば、あとはあたしが封印してみせるわ>
エイラムの顔が引きつった。こんな剣に何度も封印されたのは、やはり屈辱らしい。エイラムは両の掌に、炎の球を出現させた。
「死ぬ前に一つだけ、貴様の望みを叶えてやろう。‥‥お好みの焼き加減は?」
「レアで頼むよ。こんがり焼かれるのはぞっとしない」
エイラムが、両手の術を解き放った。真紅の波がユウキを覆い尽くしていく。
「ふむ。火力が強すぎたかな」
部屋中を焦がすような火のドームの中心に、黒い影がちらりと見えた。炎を振り払いながらユウキが飛び出す。上段に振りかぶった剣をエイラムに叩きつける。
エイラムは床を転がり、なんとか剣をかわした。
ユウキは、いつも通りの静かな調子で言った。
「とりあえず、妖魔の背中を地につけることは成功したよ。たかが人間が、ね」
「なぜだ? なぜ、私の術に耐えられる?」
「俺はそういう体質らしい。理事たちが言っていた。俺には魔法は全くきかないって。とりあえず切り札は隠しておいたんだけど、どうもうまく行かなかったな」
それを聞いたティーナはふと思い当たった。回復魔法がきかなかったのは、そのせいだったのだ。
エイラムは再び笑いだした。今度のそれには、なぜか自嘲の響きが多分に混じり始めていた。
「体質? 体質だと? 理事というのが何者かは知らんが、貴様はだまされているぞ。そんな体質があってたまるものか。貴様のその力は、もっと深く、恐ろしいもの──まさか、魔界ではなくこんな所で出会うとはな!」
エイラムの目の色が、明らかに変わりはじめた。
「本気で行かせてもらうぞ。さっきの娘にも少々驚かされたが、貴様は完全に、ただの人間ではない」
ユウキはエイラムの言葉を無視し、エイミーに語りかけた。
「エイミー、どんな武器にでも変化できるんだよな?」
<ええ、ダーリン。斧でも槍でも矢でも、あたし、あなた好みの武器になるわっ♪>
ユウキはエイミーを、掌におさまりそうな小さな短剣に変化させた。
「投げるつもりか? だが、そんなものにむざむざ当たってやるほど、私はお人好しではないぞ。避ければもう、打つ手なしだ。何か私に隙でも作らぬ限り‥‥」
「では、お言葉に甘えよう。“閃熱光砲”!」
いつの間に準備していたのか、クラウドが『戦車』の
金の呪文 を発動させた。黄金の光条が、背後からエイラムめがけ走る。( 「なにぃっ!? 貴様、精神力を使い果たしたはずでは?」
「ふん。敵の言うことを真に受けるなど、ただの馬鹿だぞ」
反射的にエイラムは身をかわした。その機を逃さず、ユウキは短剣を投げつけた。
そしてそれは、とっさに横に飛びのこうとしたエイラムの左の二の腕に、吸い込まれるように突き刺さった。
「やった、命中!」アーリィが、喜びと安堵の混じった声で叫んだ。
「‥‥ちっ‥‥」
エイラムは右手を左肩に当てた。手の中に光が生まれる。閃光が走った。
「そんな‥‥」
ティーナが、手で口を覆った。
エイラムは吹き飛ばしたのだ。自らの左腕を。そして、ユウキたちの勝機を。
ユウキはがっくりと床に膝をついた。
「──負けたな」 そうつぶやく。「もう、いいよ‥‥みんなまとめて、一思いに殺してくれ。 あんたならできるんだろう?」
「ユウキ、何を言うんだよ!?」
アーリィが叫ぶが、もはやユウキの耳には入っていないようだった。
「一思いに殺せ、だと?」
エイラムは、自分の横の壁を、残った右腕で殴りつけた。石が砕け、かけらが飛び散る。
「ふざけるな。だから人間は甘いのだ。私にこれほどの、恐怖と、屈辱と、痛みを与えた者を──あっさり殺すと思うか?」
ユウキに向かって、エイラムはゆっくりと歩き出した。ユウキは下を向いたまま動かない。
「選択肢は一つ、なぶり殺しだ。一人ずつな。最初は当然、貴様‥‥」
ユウキの傍らに立ち、エイラムは手刀を振り上げた。
「まずは私と同じく──左腕だッ!」
その瞬間、ユウキが動いた。
「‥‥もらった!」
至近距離のエイラムに、右拳を突き出す。そこには小さな短剣となった魔剣エイミーが握られていた。
最初に投げたのは、ごく普通のただの短剣だった。
そして言葉の挑発だけで、エイラムを無警戒のまま近づかせることに成功したのだ。
「完璧、です‥‥」
ルージャが、かすれた声でつぶやいた。
「完璧な“崩し”でした。ただ体勢の問題だけでなく、心理的にも完全にエイラムを翻弄し、相手の戦闘力を最低限に封じていました‥‥さすがはユウキ先輩と言うほかはありません‥‥」
ルージャは、拳をきつく握りしめた。
「けれど──」 完全に裏をかいた一撃だったにもかかわらず、あの距離からであったにもかかわらず── 「──それでもなお、妖魔の戦闘力のほうが上だった‥‥」
ユウキの右手首は、エイラムによってしっかりと掴まれていた。
「言ったろう? 策や冷静さなどでは、私は倒せない」
突き刺さる寸前だった魔剣エイミーが、ぽとりと床に落ちた。
* *
「おやおや。ちょっとピンチのようですよ、勇者くんたち」〈宮〉の理事ナンが言った。「助けてあげますか、理事長?」<いや>
水晶の声は、それをあっさりと否定した。
<人の肉体というものは、いったん限界近くまで追い込むことにより急激に成長する。精神もまた、同じことだ。──彼らにはもうしばらく、死ぬような思いを体験してもらおう>
理事長がそう言ったとたん、部屋に声が響いた。
「理事長っ!!」〈翼〉の理事ヴィジタルの声だった。試練場の中から声のみを飛ばしてきているのだ。
<ヴィジタルか。学生の避難は終わったのか?>
ヴィジタルはそれには答えず、厳しい調子で言いはじめた。
「話が違うのではありませんかっ? そもそもこの検定は、ユウキ君に妖魔というものがどういうものか見せるのだけが目的だったはず。もうそれは充分に達成されました。これ以上、彼らを危険な目に遭わせる必要がどこにあるのです!」
<落ち着きたまえ、ヴィジタル。どうせ近いうちに、彼らは妖魔との戦闘を経験する。しかしそのとき我らが助けてやれるという保証はない。ならば確実に安全なこの状況でレベルアップしてもらったほうが、けっきょくは彼らのためだ。違うかね>
「だからと言って我々に、あんな若者を必要以上の危険にさらす権利があるのですか? そんな暴挙が許されると? 私にはとてもそうは思えません」
<忘れたか、ヴィジタル。我らに許されぬことはただ一つ、敗北のみだ。それ以外のいかなる倫理や正義も、この学園の使命の前ではただの飾りにすぎん。それでも綺麗事に酔っていたいというのならば、存分にやりたまえ──ただし、世界が滅んだあとでな>
「し‥‥しかし、もしこの場に学園長がおられたら、私と同じことを言うはずです!」ヴィジタルはしつこく食い下がる。
<学園長か。確かに、私をラグナロック学園の頭脳とするならば、学園長は学園の魂だ。‥‥だが、頭脳が魂に勝るべき状況もある>
「‥‥だが、頭脳が魂に勝るべき状況もある>
「──わかりました」
ヴィジタルは、しばしの間、沈黙した。
「そのかわり」
突然、声量が上がった。ヴィジタルが術を調整したらしい。
「今後も含め、万が一この学園が彼らを死に至らしめた場合──」
ヴィジタルが息を継ぐ音までが、はっきりと、理事たちの集まるこの部屋に響き渡った。
「第二十八代〈翼〉の理事ヴィジタル、学園に弓を引く覚悟もあるということを、よくおぼえておいていただきたい!」
そうして、ヴィジタルは一方的に通信を切ってしまった。
〈僧〉の理事キラムが口笛を吹いた。
「言ってくれるじゃねぇか、ヴィジタル殿」
「普段はあれほど忠義に厚い男がのぉ‥‥」と、〈金〉の理事ミト。
「あの人はずっとユウキ君の世話をしてたからね。情が移ったんじゃないですか」
〈占〉の理事ファルクが言い、理事長が答えた。
<まあ、かまわんさ。あのような男は必要だ。学園にとっても、勇者にとってもな>
* *
ユウキは妖魔の蹴りを受け、壁に叩きつけられた。そのまま重力に引かれてずるずると床に崩れる。「まずいですね‥‥。戦力差がどうこう以前に、先輩はもう絶望しきっています。これでは誰もが持っている、生存本能という微弱な防御のパトスさえ働かない‥‥」
ルージャはまだきしむ身体を気力で支え、立とうとした。
その鼻先を、緑色のものが走り抜けた。アーリィだ。
「ユウキ──!」
もはや弓は持っていない。ただ拳を握りながら、彼女は走った。
ユウキに比べれば、自分は──母親がおり、故郷があり、記憶もちゃんとある。重い使命も責任も持たないままで、ずっと楽に生きてきている‥‥。
「だからっ!」 アーリィは叫んだ。「だからっ、ユウキがあんなに頑張ったのに、何もせずにあきらめるなんてできないよ! 封印の魔剣なんかなくったっていい! ──これ以上ユウキが傷つけられるくらいなら、せめてボクが代わりになってやるっ!!」
エイラムが振り向いた。アーリィは、声にならない絶叫を上げた。
(よくもっ! ユウキをっ!!)
次の瞬間―無我夢中で放った拳が、エイラムを床に打ち倒していた。
ルージャは思わず、痛みも忘れて立ち上がった。
「妖魔の、他者を拒絶する自己防衛のパトスの力場──それを、アーリィ先輩の怒りのパトスが貫いた‥‥!」
アーリィが、ユウキに駆け寄ろうとした。その足をエイラムが払った。倒れたアーリィと入れ代わりに、エイラムは身を起こした。
「この私が、二度も地を舐めさせられるとはな」
エイラムはアーリィの頭部を右手で鷲掴みにして引き起こすと、そのまま宙に吊り下げた。
「人間の身でありながらあれだけのパトスを放ったのは称賛に値する。──しかしだ。怒りは攻撃のパトスを生み出すのに最も効率のいい感情とはいえ、逆上して己を見失ってしまうようでは意味がない。パトスとは、自我の具現化したものなのだからな」── エイラムの腕の筋肉が、ルージャたちからでも充分に見てとれるほど、キュッと収縮した。力を込めて頭部を掴んだまま、エイラムはアーリィの身体を振り回し、ユウキ同様に壁に叩きつけた。
「未熟! 心は己の中に棲む一匹の獣‥‥。ただ暴れさせるだけではない。飼い馴らすのでもない。鉄の鎖に縛られながらも、その鎖で爪と牙とを研ぐ、洗練された野獣──それが極意だッ!」
心は獣‥‥。意識を混沌の波にゆだねながら、ユウキはぼんやりとその言葉を聞いた。心というものが、完全には制御できぬ獣のようなものなのだとしたら、今こうして考えている自分は何なのだろう。心と頭脳は違うのだろうか。鎖。縛るもの。つなぐもの。
‥‥さっきから、開いた掌にポタポタと滴るものがある。
(温かい。気持ちいいな‥‥)
半ば本能的にユウキは、その何かで濡れた手を顔の前に持っていった。独特の匂い。薄く目を開けて確かめてみる。
──血だ。
全身の体液が下に向かって引いていくように感じた。頭に冷静さが戻る。
ユウキは、壁にもたれ足を投げ出して座っている自分に気付いた。そしてその膝の上に、折り重なるようにして倒れているアーリィに気付いた。ポタリ。彼女の額から流れる鮮血が、床に真紅の池を作りかけている。
「アーリィ‥‥?」
返事はなかった。ユウキはアーリィの身体を抱き起こした。彼女の手足はだらりと垂れ下がった。かすかにだが呼吸と動悸は感じられる。しかし心のない身体はただの“物”だとわかった。
ユウキはアーリィを壁にもたせかけ、立ち上がった。右手を見た。自分のために流された、自分以外の者の血。
『‥‥!』
そのときルージャには、部屋中の空気が一斉に脈打ったように感じられた。「──心の、鼓動?」
『‥‥!』
「貴様、何をやる気だ!?」 エイラムが言う。「やはり、貴様は危険な存在‥‥私がこの場で始末するッ」
『‥‥!』
うつむいていたユウキが顔を上げ、エイラムを見た。
『‥‥! ‥‥!!』
その刹那、エイラムの身体が大きく後ろにのけぞった。エイラムだけではない。ルージャやティーナ、クラウドたちも、全身に内側からぽっかりと穴が開くような虚無的な苦痛を感じていた。さらに、壁や床にも無数の細かい亀裂が走る。
「全てを否定する自虐と厭世のパトス──ユウキ先輩、それではあなたの精神がいちばんダメージを受けるはず‥‥!」
エイラムがユウキめがけ走り、彼をとらえた。右腕で一撃、そして二度三度とエイラムはユウキを殴った。ユウキはされるがままに、しかししっかりと足を地につけたままで立ち尽くしていた。
「妖魔の攻撃を受け付けない‥‥? ユウキ先輩が自分自身を傷つけようとする力のほうが、はるかに大きいのか‥‥!」
殴られながら、ユウキの口からぽつりとつぶやきが漏れた。
「‥‥何が自分の存在意義だ‥‥俺は、そのために人を傷つけた‥‥己の快楽のために他人を犠牲にしたんだ‥‥」
ユウキは、静かに目を閉じた。
「下手に幸福になろうとしたのがいけなかったんだよ、アーリィ。やっぱり俺にはこんな戦い方が、生き方が、似合ってる──」
全てを捨てて冷静に徹するんだ。心を閉じ、感情を殺し、胸の奥で息づく何かを遠くに追いやってしまおう。そうすれば誰も傷つけずにすむ‥‥。
ゾクリとくる感覚に、ティーナは思わず身を震わせた。「これは‥‥冷気‥‥!?」
ユウキの顔から表情が、人間らしさを感じさせるものが、全て消えていった。まるで彫像のようだ。
エイラムは狂ったようにユウキを殴り続けた。しかしもはや無機物を殴っているような手応えしか感じない。確実にダメージは与えているはずなのに、ユウキが全くの無反応なのだ。
ユウキの心が、凍りついていく──
* *
遠く離れた理事会室で、静かな低い声が告げた。<ついに始まったか──“凍れる暴走”が>
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