罪と欲望の座標軸の上で












 パイは、一人でずっと公園をうろうろしていた。昼間はさすがに言いすぎたかもしれない。今になってから、激しく後悔した。

 謝りに行ったほうがいいのだろうか。

 迷っているうちにこんな真夜中になってしまった。

 ──つまるところ、アーリィとパイはよく似た一面を持っているのである。

「よし、とりあえずちょっと謝ってあげるか。あの子バカだから、思い詰めると何をするかわからないもんね」

 ようやく決心して、パイは女子寮への道を戻りはじめた。

「‥‥え!?」

 そのとき、奇妙なものが目に映った。最初は何かわからなかった。近づいてよく見てみて、パイは仰天した。

 ベンチの陰に、見知らぬ少女が倒れていたのである。‥‥それも、裸で。

「ちょっと、あんた、どうしたのよ! 何があったの!?」

 少女は気を失っているようだった。破れた衣服の布が、申しわけ程度に体に張りついている。

「ねえ、起きなさいってば‥‥!」  答えはない。少女はただ、眠っているかのような安らかな表情で横たわっていた。パイは恐る恐る少女に近づいた。外傷の類は見当たらない。服も、誰かに破られたというより自然に千切れとんだような感じである。まるで小さすぎる服を無理やり着ようとしたときのように。

 とりあえず自分の上着を脱いで裸身にかぶせ、パイはまた声をかけた。

「おーい、ちょっと。大丈夫?」

 今度は少女がかすかに反応した。唇がとぎれとぎれに動き、言葉を発した。

「‥‥待って、ヒミカ‥‥だめ‥‥みんなが、危ない‥‥守らなきゃ‥‥」

「あんた、しっかり!」

 だが、他人の心配をしている場合ではなかった。パイがそのことに気づいたときにはもう遅かった。少女の口から、黒い霧が滑り出た。

「!?」

 黒い霧は瞬く間に彼女の頭部を包み込んだ。その霧に触れられたとき、彼女の背筋は凍りついた。すさまじいまでの憎悪が、彼女の体を走り抜けたのだ。そして彼女は意識を失った。




   第八章 質問に答えて魔界へ行こう!



 アーリィは、購買部をめざしてやってきた。

「でも、どうしよう。この学園、戸締りとか結界とかは厳重だからなぁ。それ以外はアバウトだけど」

 どうやって校舎に侵入しようか考えていると、ちょうど一階の窓が一つ開いているのが見つかった。

「やった、ラッキー!」

 彼女を誘い込むためゴーレムたちが開けておいた‥‥という可能性は考えもしないアーリィだった。

「‥‥よいしょっと」

 窓枠に手をかけ、身体を引き上げたとき、誰かが背中を強く押した。アーリィはバランスを崩して校舎の中に転げ落ちた。

「痛いなぁ! 誰だよっ」

「あとがつかえているんだ。早くしろ」

 月明かりに浮かび上がる、端正な顔と長い金髪。

「クラウド!? 何やってたのよ、今頃のこのこと現れて」

「俺は追試を受けさせられていたんだ。そのことは知っているだろうが。それよりそちらの状況を話せ」

 アーリィはクラウドに事情を説明してやった。聞いているうちに、クラウドの表情が険しくなる。

「──だから、ボクはユウキを助けに行かなきゃならないの」

「おい、本当に話すことはそれだけか」

「うん。そうだけど?」

「貴様とユウキの話は別にどうでもいい。自業自得だ。しかしルージャとアスカ、それにティーナも、部屋にはいなかった。もしかしてそのゴーレムとやらに襲われているんじゃないか?」

 アーリィは眉を寄せ、考え込んだ。

「そうかもしれない。けど、今から探しに行っても見つけられるかどうかわかんないし。それよりボクは、確実にわかってる本拠地を叩くべきだと思うな。あのゴーレムたち、どうもボクたちを殺す気はないみたいだしね。‥‥どうしたの?」

「いや、貴様がそんな筋道だったことを言うと、かえって怪しく思える。これがユウキかルージャあたりなら賛成する気にもなるが‥‥」

「じゃあ、ついてこなくていいよーだ」

 相変わらずのやりとりを交わしつつ二人が侵入したのは、教室の中だった。夜の誰もいない教室というのは、独特の雰囲気がある。

「どうするの。早く決めてよ」

「──黙れ」

「なにぃっ!?」

「黙れと言っている。‥‥ほら、足音だ」

 廊下を歩く足音は、教室の扉の前で止まった。二人の顔に緊張が走る。

 ガチャッ。扉が開かれた。真っ暗な廊下から現れたのは──。

 なんと、もう一人のアーリィだった。

「な‥‥っ‥‥!?」

 口をぱくぱくさせるこちらのアーリィと、思わず二人の顔を見比べるクラウド。

 新たに現れたアーリィが、叫んだ。

「クラウド、気を付けて! そいつはボクのニセ者だ! ゴーレムだよっ!」

「ち、違うよっ。ボクは本物──」

「小娘が、二人だと?」

 クラウドはカードを取り出した。

「ならば片方は殺しても罪にならんな! “雷神制裁”!!」

 一瞬のためらいもなく放たれた魔法が、扉から入ってきたほうのアーリィを打ち砕く。‥‥アーリィのダミーは、塵と化した。

「ほう、なかなかやるではないか」 どこからともなく声が響いてくる。「我らの作りしダミーに惑わされもせぬとはな。褒めてやるぞ。ふはははは‥‥」

 そして、声は途絶えた。

「‥‥クラウドぉーっ!」

「どうした」

「もしあっちが本物のボクだったら、どうするつもりだったんだよ!?」

「いや、むしろそれを期待してたんだが。ハズレだったようだな。チッ」 クラウドは舌打ちした。

「あんた‥‥最っ低‥‥」

 二人は教室から廊下に出た。そこにはゴーレム、“赤”が待ち受けていた。

「ふはははは! 仲間のダミーは通じぬようだが、こういうのはどうかな?」

 奥から、一人の美しい女性が歩み出る。

「ティーナ!?」

「いや、違う」

 クラウドが短く答えた。「あれは‥‥エミナ‥‥だ」

「‥‥兄さん、私と一緒に死んで」

 女性は手にした剣を振り上げた。

「なるほどな。俺の記憶を読み取ったのか。しかし、俺がここに来てからのわずかな時間で慌てて作ったゴーレムだ。性能はどうせゴミ以下だろう」

 落ち着き払った声でそう言って、クラウドは再び魔法を発動させた。エルフの女性の姿をしたゴーレムは、あっさりと打ち砕かれた。

「ふはははは、これは驚いた。普通、死人と同じ姿をしたゴーレムを攻撃できるものではないのだがな。まして、それが肉親ならなおさらだ」

「妹さん? ──死んじゃったの?」

 クラウドに聞こうとしたアーリィは、思わず口をつぐんだ。クラウドは無表情なまま、何かブツブツとつぶやいていた。

「‥‥あらゆる手を尽くした。何度も願い、そして夢見た。それでも叶わなかった。‥‥こんな所でエミナが簡単に甦るようなら、俺は苦しんだりしないさ‥‥」

「クラウド‥‥」

 アーリィの声で、クラウドはハッと我に返った。

「そこのゴーレム!」

 すっかりいつものペースを取り戻し、クラウドは高圧的に叫んだ。

「手段を選ばぬその戦いぶりはなかなか評価に値する。しかし貴様もしょせん、使命や仲間といったつまらないもののために戦っているのだろう? 貴様など悪の風上にも置けんわ。虫酸の走る偽悪者めが!」

「ほざけ! 我輩に逆らうことの愚かさを思い知るがよい! ふはははは!」

 赤の指先から魔力弾が放たれた。

「──真の悪とは、こういうものを言うのだッ!!」 クラウドは、隣にいたアーリィの襟首をひっつかむと、前に突き出して楯にした。完全にギャラリー気分だったアーリィは、魔力弾をまともに受けた。

「ク、クラウド‥‥あんたって奴は‥‥」

「何も言うな、小娘。お前は俺を守る!」

「助詞が違ーうっ!」 叫んでから、アーリィは不思議そうに自分の身体を見回した。「あれ? あんまり痛くないや」

 それを聞き、クラウドは赤のほうを見やった。

「貴様、まさか──」

「ふはははは!」

「態度はデカイが、実はものすごく弱いんじゃないか?」

「ふはははは! よくぞ見抜いた! 褒めてやろう!」

「“魔術炎弾”!!」

 クラウドの魔法が赤を直撃した。

「ふはははは! ぬるい! ぬるいわ!」

「ほう。ボディだけは妙に頑丈なようだな」

「ふはははは!」

「‥‥なるほど、わかったぞ」 クラウドはぽんと手を打った。「小娘の話によれば、青は直接戦闘、そして紫は空間転移の能力を持っていたらしいな。恐らく、貴様らは一体に一つずつ、特殊な役割を与えられているのだろう」

「ほう。では我輩の役割は何だと言うのだ?」

「万が一、仲間のゴーレムに何らかの異常が発生したとき、そいつが見聞きしてきたデータを受け継ぎ、主のもとへ送る‥‥。いわばバックアップユニットが貴様だ。だから戦闘能力を排し、耐久力のみを極限まで高めてある。貴様自身が壊されては元も子もないからな」

 だから、ユウキが青たちと戦っていたときも、赤だけは戦闘に参加しなかったのだろう。偉そうで余裕ぶった態度も、できるだけ敵を寄せつけぬようにするためかもしれない。

「そして、その貴様がここに足止めに現れたということは、他のゴーレムはすでに全て敗れたということか」

「ふはははは! ‥‥残念だが貴様の言う通りだ。今ユウキと青は大事な用の最中なのでな。それが済めば我が輩たちの役目も全て終わるのだ。ゆえに、貴様らにはもうしばらくここにいてもらう」

「俺は、どちらかと言えばユウキなどどうでもいいんだが‥‥。しかしそう言われると、かえってますます貴様をブチ壊したくなってきたな」

 クラウドはもう一度カードを構えた。

「汝、まばゆき輝きのコインに宿る魔力よ──逆位置のカード『太陽』の導きに従い、その力を解放せよ! “灼熱天輪波”!!」

 赤に向かって投げつけられた金貨を中心に、光と熱の渦が巻き起こった。その場の空気が揺らぐ。陽炎の中、赤は塵となって溶けていった。

「‥‥エミナ」

 クラウドがもう一度小さくつぶやいたのを、アーリィは聞き逃さなかった。いくら相手がクラウドであっても、いつものお節介グセが出てしまう。アーリィはあえて明るい声でクラウドに話しかけた。

「ねえ、クラウドの妹さんって、綺麗な人だったんだね。ティーナに似てると思ったけど、やっぱりボクから見ればエルフの女性は同じように見えちゃうのかな」

 クラウドは答えない。

「‥‥でも、あんなのは許せないよね。死んだ人の姿を使って攻撃してくるなんてさ」

 あの守銭奴のクラウドが、ためらいもなく金の呪文(ゴールド・スペル)を使ったのだ。胸中の怒りがそれだけ激しかったということだろう──。

「──って、それはボクの財布じゃないか! いったいいつの間にっ?」

「おや、本当だ。世の中には奇妙なこともあるものだな」

 ということは、さっき使った金貨はアーリィのものだったらしい。アーリィはがっくりと床に両手をついた。

「‥‥もうやだ‥‥こいつと二人っきり‥‥」

「あ、あの」

 後ろから、聞き覚えのある声がかかった。アーリィはハッとして振り向いた。

「ティーナ! ‥‥えーと、本物だよね」

 ティーナは意味がわからないらしく、不思議そうな顔をした。アーリィはティーナに飛びついた。

「やっぱりトゥインクル・スターズにはティーナがいないとダメだよっ。ありがとう、来てくれて」

 ティーナはまだしばらく戸惑っている様子だったが、すぐに笑顔を浮かべた。

「こちらこそ、あらためてお願いします。私もご一緒させてください」




*                   *


「ユウキ、背の傷の具合はどうですか。治癒は完全だったと思いますが」

 ここは購買部の商品倉庫。未鑑定の武器や呪われたアイテム、そして売れ残りの商品などがあちこちに積まれている。倉庫といえば聞こえはいいが、つまりは不用品置場である。

 ユウキは、なぜかそこにあった木の十字架に縛りつけられていた。

「──なぜ、俺を殺さない?」

 冷やかに青を見下ろし、ユウキは言った。

「ユウキがここにいる限り、お仲間は必ずここに集まってくるでしょうから」

 それを聞いてユウキは、納得したような表情になった。

 やはりこのゴーレムたちは、自分たちトゥインクル・スターズの力を計ることが目的なのだ。

 しかしそうなると、さらに理解できないことが出てくる。

 普通なら情報収集とは、敵を確実に倒すために行うものだろう。だがそれなら、ここで自分を殺したほうがはるかに手っ取り早いはずだ。

「色々と聞きたいことがありそうですね、その顔は。ユウキさえその気なら、答を知る方法はありますよ」

「方法‥‥?」 ユウキは問い返した。

「そう、ユウキを魔界に送り、直接アタラクシア様と対面していただくのです」

 とてつもない内容を、青は平然と口にした。人間が魔界に行くなどできるはずがないし、普通なら考えもしないことだ。

「信じられないな。そんなことができるなら──魔界とこちらとの行き来が簡単にできるようなものなら、とっくに人は妖魔に滅ぼされているはずだ」

「その通りです。魔界と地上の間には、“不可逆の壁”という結界がありますからね。しかしアタラクシア様の力を以てすれば、ユウキの精神のみを魔界につなげ、対話を行うことも可能です。‥‥アタラクシア様でさえその程度が精一杯、というのが正しい表現かもしれませんが」

「それをすることで、俺の身に危険が及ぶ可能性は? いや、そもそもそれが何かの罠でないという保証はあるのか?」

 ユウキは慎重に尋ねた。彼らが単なる敵ではないということは、どうやら確かだ。だが無闇に信用するわけにもいかない。

「はい、ユウキがそう言われるのも当然です。ですから私は、あらかじめユウキの了解を取るようアタラクシア様におおせつかっております。無理に強行することもできないではないのですが」

 青はユウキに近づき、血の通わぬ手でユウキの前髪をかきあげた。そしてそのまま指先をユウキの額に押し当てる。

「全てはユウキの答しだいです。──ユウキは、何を望みますか?」

 ユウキは黙り込んだ。これは、自分の一存で決定していいことなのだろうか。学園や仲間に対しても彼が責任を負っていることは否定できない。もしここで命を落としてしまったら、彼らはどうなる?

 ‥‥しかし、知りたい。魔界とは何なのか。妖魔というものがどういう存在なのか。

 知りたい。自分が何者なのか。何をすべきなのか。

 長いためらいのあと、ユウキは答えた。

「‥‥俺が望むのは、真実だ」

「いい答です。‥‥ご安心ください、私は単なるパイプ役で、あくまで術を行使するのはアタラクシア様ですから。あの方に失敗はありません。まして、ユウキのことならば」

 ユウキは、額に当てられた青の指に力が集まっていくのを感じた。

「目を閉じてください、ユウキ。そしてできるだけ心を静めるように。あなたの“あの能力”だけは、術を使う上で厄介ですからね」

 ユウキは瞳を閉ざす。頭の中に、青の指先のイメージだけが浮かぶ。そして次の瞬間、意識の全てがその一点に渦のように引き込まれていくように感じ‥‥。

 ‥‥ハッとして目を開けると、そこは元の倉庫ではなかった。見知らぬ部屋だ。目の前の安楽椅子に一人の男が腰掛けている。

 ユウキは辺りを見回そうとしたが、できなかった。一方向からの映像しか目に入ってこないのだ。

「ようこそ、ユウキ君」 鼻の上に乗せられた眼鏡ごしにユウキを見て、男は言った。「意外とあっさり来れるものだろう? 近いようで遠く、遠いようで近い。それが魔界と地上との距離だ。‥‥身体がないということで色々と違和感もあるだろうが、とりあえず我慢していただけるかな」

「あんたが‥‥“魔仙アタラクシア”か?」

 妙な感じだった。口を動かしている感覚がないのに、言葉が相手に伝わっているのは感じられる。

「そう、私がアタラクシア。私についての説明は一言で足りる。いわゆる天才だ。そう認識しておいてもらえれば、だいたい不都合はないだろう」

 自信たっぷりといった口調だが、不思議と傲慢さは感じられない。

「さてユウキ君。私はずっと、君と話ができるときが来るのを待っていた。多少は強引な手段を使ったことは認めるが、天才のしたことと思って許してくれたまえ。──それでは、時間がないので単刀直入に行こう。何か聞きたいことがあるのだろう?」

 ぺらぺらと喋るアタラクシアに向かって、ユウキは言った。

「何よりもまず、あんたはなぜ俺にこんな干渉をする? 俺は妖魔の敵じゃないのか?」

「それについては複雑な事情があるのだが、とりあえず私は君の味方だよ。信用したほうがいい。何しろ私は、天才だからねぇ」

「自分から味方だと名乗る奴に、ろくなのはいないよ。あんたは十柱の皇族妖魔の一人、いわば魔界の指導階級のはず。過去に魔界が地上に侵攻したというのは事実だろう。信用はできない」

「そう、その“十柱の”というヤツが曲者でね」

 アタラクシアは、指先をユウキに向けた。

「妖魔は、ノーブル・オフィサー・ソルジャーという三階級にわかれている。君たちの呼び方ならば上中下級だ。その頂点に立つのが十人のロード、私たち皇族妖魔ということになっている」

 アタラクシアは指折り数えながら、ユウキの前で十人の名を挙げた。

 魔王アルクイン。

 魔天キサナ・ラー。

 魔将ドライツェン。

 魔公ヴィルトゥ。

 魔人フォーレイン。

 魔匠テイツォ。

 魔童ラサ。

 魔姫プレイセ。

 魔仙アタラクシア。

 魔帝ラブリュエル。

「これら十人が、同じ目的のために一致団結しているかというと、そうではないのだ。地上侵攻に積極的な者もいれば、己のことしか考えていない者もいる。私のように中立を保っている者もいれば、以前の侵攻の折、生きて帰って来なかった者もいる」

「それは、死んだということか? ならなぜいまだにそいつを数に入れているんだ?」

「我々十人が特別な存在だからだ。誰も我々の代わりにはなれない。後継者もあり得ない。誰かの名が抜けることもあってはならない。我々は、死んだぐらいでは逃れられない宿業を背負っているのだよ。おのおの思想は違えど、そういう意味では我々は運命共同体だ。しかし、私はアルクインたちのやり方には共感できない。だからこうして魔界の辺境で隠遁生活を送っている」

「なるほどな。あんたは地上侵攻が嫌で逃げているってわけか」

 妙な妖魔だ、とユウキは思った。中立を保とうというところまでは、まあいい。だが、どうして自分に肩入れしようとするのだろう。自分は妖魔を滅ぼすための存在だというのに。

「そう、私は逃げた。あらゆるもの全てから逃げだしたのだ。それが最も公平な手段だと思ったからね。私は何にも干渉しない。プラスにもマイナスにもならない。そうして私はここにいる」

「どういうことだ。妖魔の地上侵攻には、どんな目的があるというんだ」

「残念ながら、今は全てを話している時間はない。そしてまた、話さぬほうがいいと天才たる私が判断した。そこでこの場は、君に幾つかのアドバイスをしてあげることにしよう」

「アドバイスだって?」

「ゴーレムたちとの戦闘を見ていてわかった。君の戦い方には問題がある。戦闘技術のことを言っているのではないよ。心、戦う意志に問題があるのだ。‥‥君は、何かから逃げるのが嫌いなのだろう。君が戦う理由はそれだと思うが、違うかね?」

 ズバリと言い当てられ、ユウキはわずかに動揺した。

「‥‥その通りだ」

「少なくとも、自ら望んで戦っているわけではない、と」

「ああ。使命を与えられた以上、それからは逃げたくない。逃げれば俺の存在価値がなくなってしまう」

 相手が味方でないと思っているせいだろうか。ユウキはむしろ素直に本音を吐いた。

「私は、逃げるのも悪くはないと思うがねぇ」

 アタラクシアは、ため息をついて言った。

「例を出そう。頭上から巨大な岩が落ちてきたとする。‥‥さて、どうする。君は逃げないのかね?」

「そりゃ、逃げるさ。だけどそれとこれとは話が──」

「同じだ。無意味な障害にいちいち全力でぶつかっても仕方がない。言葉のマイナスイメージに捕らわれるのは愚かだよ。逃げるのが最良の選択である場合もある。意地を張って岩にぶつかってみたところで、何の得にもならないからねぇ。ましてや、落ちた石を取り除いたり、二度と石が落ちてこないようにするためには、その場は一度逃げるべきだ」

「でも現実は、単純に損得で計れるものでもないだろう」

「では、こう考えてみてはどうかな。君は逃げるのが嫌だと言う。それは『逃げる』という選択肢から背を向けて逃げているんじゃないのかね。それはかまわないのかい?」

 ユウキは言葉に詰まった。アタラクシアは話を続ける。

「全ては相対的なものなのだよ、ユウキ君。それを無理に一方からの視点でとらえようとすると、矛盾が生じる。君は逃げたくないという理由で、妖魔と戦う道を選んだ。何千何万の妖魔を殺す道をね。その時点で君は、妖魔を救うという道から逃げだしたことになる」

「それは‥‥仕方が‥‥」

 アタラクシアの口調が厳しいものになった。

「仕方がないですませるのか。確かに、全てに立ち向かい受け入れようとする姿勢は、一見すると崇高で立派なものに思える。だが事実は違う。一つのものを受け入れ、頭で納得するたび、君の心は汚れていく。大切なものを失っていく。それを成長と呼ぶ馬鹿も世の中にはいるが、そんなものは堕落でしかない。そうやって周囲に合わせていくことだけが、君の求める生き方なのか?」

 アタラクシアは安楽椅子にもたれかかると、大きく息をついた。落ち着いた調子に戻って話しつづける。

「確かに、綺麗なだけでは生きていけないかもしれない。どうしても受け入れねばならない現実もあるはずだ。しかし流されているだけでは駄目だ。自分とは相容れぬものを拒絶しつづける純粋さも大切なのだよ、ユウキ君。──わかるかい。君に必要なのは、貫くべき己の意志だ。存在意義とは、外から与えられるようなものではないのだよ。ラグナロック学園とやらの示す大義に君が従う必要はない。それは単に一つの思想にすぎないのだから。君は、君自身の意志で戦うべきなのだ」

「俺は‥‥そこまで自分を大切にできない。自分を中心に考えられない」

「気取った言い方はやめたまえ。自分が大切でないというのなら、今この場で生命を絶つべきだ。生きていても無駄だからね」

「‥‥それもできない。俺にはやらなければならないことがある」

「ならば、もっと自分を大切にすべきだろう。生命には意味がある。人には果たすべき役割がある。人は、己の意志でそこに向かって突き進まねばならない。自分が嫌いだとか必要ないとか、そんな“甘え”が介在する余地はどこにもないのだよ。ユウキ君、人の価値はスカラーではなく、ベクトルだ。存在価値が負であったとしても、生き方が正を向いているかぎり、その者には生きる資格がある。──全ては相対的だ。客観視することが不可能な人の世においては、自分の主観を信じて貫くのが最善の道だろう。迷う必要はない。結果は時が導き出してくれる。それ以上を望むのは傲慢というものだ。しょせん我々はこの世界の一部でしかない。絶対の主人公になど、誰もなれはしないのだ」

「‥‥それもまた、あんた一人の思想だろう」

「その通りだ。ただ、今後の君の生き方の指針となることを期待して、こうして君に告げているというわけだ」

「なぜ、そんなことをする? どうしてそんなに、俺に肩入れしようとするんだ? ‥‥あんたは、全てから逃げることを望んだんだろう?」

「君が現れたことにより、本当に私が戦うべきときが来たと判断したからだ。虚飾を捨てて自分を貫くべきときがね。君の力となるのが、私の戦い方なのだよ」

「‥‥アタラクシア。俺には、あんたの言うことが完全には理解できない」

 ユウキは初めて、相手の名を口にした。

「だけど、今の会話の中で気付いたことがある。それは──俺は、迷いながら生きることがそれほど嫌いではないということだ」

「‥‥迷いの中にこそ己を見出そうとするか。いかにも君らしい答だ。だがいいかい、ユウキ君。流されるままに無為に我が身を削るような戦い方はやめたほうがいい。君が傷つくことを悲しむ者もいるのだ。たとえば仲間とか、肉親とかね」

「俺には、肉親なんていない」

「そんなわけはないだろう。君にもわかっているはずだ。不条理なことを言うのはやめたまえ」

「それなら──」

 そのとき、ユウキは目の前の映像が霞むのを感じた。アタラクシアの姿も、部屋の様子も、霧に包まれたようにおぼろげになっていく。

「どうやら、時間が来たようだな」 アタラクシアが言った。「まったく“不可逆の壁”とは厄介なシロモノだ。私の天才的な力を以てしても、ここまでが限界か‥‥」

「待ってくれ! それなら、俺の肉親とは誰なんだ? あんたは、俺のことを知っているのか?」

「解答をすぐに言ってしまっては面白くないじゃないか」

 アタラクシアは、ちっちっと指を振った。

「宿題にしておこう。次に会うときまでに考えておきたまえ。私と君とは、いずれまた出会う運命にある。‥‥それともう一つ。皇族妖魔は私のように賢い者ばかりではないよ。中には本気で君の命を狙っている者もいる。充分に気を付けたほうがいい」

 その言葉を最後に、ユウキとアタラクシアの交信は途絶えた。





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