痛みの数だけ、ずるくなる












「‥‥どうしよう‥‥」

 午後に入っての最初の講義が終わってから、ティーナはアーリィを探しに行った。

 昼間に会うことになっていたはずなのに、寺院の雑用をすませてから学食に行くと、そこにはユウキの姿もアーリィの姿もなかった。

「もしかして‥‥私が遅れたから怒って帰ってしまったんじゃ‥‥」

 そう考えただけで、思わず泣きそうになってしまう。自分と話をしてくれる、数少ない人たちなのに。

 アーリィたち弓兵科の二年生がいる教室を調べ、そちらに向かう。廊下の角を曲がったとき、ティーナははっと足を止めた。

 廊下の向こう側に、アーリィともう一人の女生徒がいる。確か、パイとかいう名のアーリィの友人だ。‥‥どうも、言い争いをしている様子だった。

 ティーナはとっさに曲がり角のこちら側、アーリィたちから見えない位置に隠れた。どうして隠れたのか自分でもわからない。ただ何となく、近づいてはいけないような空気を感じたのだ。

 ティーナは手鏡を取り出し、こっそりとアーリィたちを映してみた。

 突然アーリィが耳をふさぎ、その場にしゃがみこんだ。

「パイ、やめて! もうやめて!」

 アーリィの叫びが聞こえてくる。

「アーリィ‥‥さん‥‥」

 こんなアーリィの姿を、ティーナは初めて見た。彼女の奥にひそむ繊細さには、以前から気が付いていたのだが‥‥。

 パイがアーリィに背を向け、こちらに歩いてくる。ティーナは急いで窓際に駆け寄り、外を眺めているふうを装った。

 パイが去ってから、もう一度様子をうかがってみる。アーリィはまだうずくまったままだった。

(出て行かなきゃ‥‥!)

 しかし、足が動かない。唇がこわばり、声も出ない。

 自分が出ていって何ができる?

 それに、誰だって弱い部分を他人には見られたくないはずだ。今のアーリィに干渉したところで、彼女の傷口を広げるだけではないのか? ここはそっとしておくのが彼女のためなのではないか──。

(‥‥違う!)

 ティーナはそんな考えを振り払った。自分はまた、理屈を付けて自己弁護しようとしている。

 自分はただ、余計なことをしてアーリィに嫌われることを恐れているだけなのだ。利己的で、臆病。それが自分だ。

(行かなきゃ‥‥行かなきゃ‥‥)

 知ラン顔ヲシテイレバ、許サレル。彼女ハコチラニ気付イテイナイ。

(でも私はアーリィさんが好き。助けてあげたい)

 ソレハ他ノ仲間ガヤッテクレル。自分ガシナクテモイイ。

(自分が嫌われることぐらい、何でもないはず‥‥)

 私ハ醜イはーふえるふ。本当ニ自分ヲ好キニナッテクレル人ナドイナイ。ドウセ、ウワベダケ。無理ニ壊ス必要モナイ。

 皆ガ私ヲ嫌イダト言ウ。私ハ、ヒトリ。

(私は‥‥‥‥)

 思イ上ガルナ。あーりぃハ私ヲ、仲間ダナンテ思ッテクレテハイナイ。今ノ偽リノ関係ガ自分ニハ相応ダ。

 私ハはーふえるふ。皆ガ私ヲ嫌イダト言ウ。私ハ、ヒトリ。

 ティーナは両手をぎゅっと握りしめ、うつむいた。

 ダンッ!! ‥‥大きな音がした。

 見ると、アーリィが思い切り壁を殴っていた。そして彼女はそのまま向こうに去っていった。機会は永遠に失われた。

 ──ティーナには、勇気がなかった。




   第六章 道化師は仮面をかぶる



 ティーナは、《海》の寺院の祭壇で祈りをささげていた。少し前まで辺りを染めていた夕焼けはもう完全に消え、夜の闇が全てを包み込もうとしている。

「情けないザマだわねぇ」

「‥‥!!」

 ハッとして振り返ると、そこには白い服を着た女性が立っていた。

「誰です、あなたは?」

「誰だっていいでしょ。だってあなたは、自分のことだけしか考えていないんだもの。違う? ティーナ」

「‥‥あなたは‥‥ゴーレム!?」

「よく一目で見抜いたわねぇ。さすがと言うべきかしら。──その能力が、あなたではなく他の誰かに宿っていればねぇ。だって、あなたが持っていても仕方がないもの。他の誰かなら、もっと早くアーリィの心を癒せたのかもしれないのに」

 なぜこのゴーレムは、自分の考えていることがわかるのだろう。未知の恐怖にかられて、ティーナは数歩後ずさった。

「神への祈りぐらいで、自分の行いに対する責任がとれると思っているの? それとも『アーリィが早く立ち直りますように』っていう子供じみた“おまじない”なのかしら?」

 耳を貸してはいけない。ティーナはそう自分に言い聞かせた。この場は、司祭長様か誰かを呼んでくるのが先だ。自分一人でどうこうできる問題ではない。

 “白”が、掌をティーナの足元に向けた。そこに小指の先程の大きさの光球が無数に生まれる。百は下らない数の小光球がいっせいに放たれ、地面を蜂の巣のようにえぐった。

 ティーナは、それを合図にしたかのように走りだした。誰かを呼んでこなければ。

「──また、他人に頼るの? 他人を恐れ、疑い、呪いながら生きているくせに?」

 ティーナは立ち止まった。

「違います! 私は‥‥」

「そうね、ごめんなさい。言いすぎたわねぇ。だってあなたは、可哀相なハーフエルフなんですものね。仕方ないわよねぇ」

 白は、ニイッと笑みを浮かべた。

「‥‥同情、してあげるわねぇ。不幸でか弱いティーナちゃん」

 再び、白の腕が上がる。

「どうしてあなたみたいなのが黒の勇者の仲間なのか、理解できないわねぇ。ここで死んだほうがいいんじゃない?」

 世間話のようにあっさりした調子でそう言って、白は小さな光球の群れを作りだす。

 対するティーナは、銀貨とカードを取り出した。

「汝、冷たき輝きのコインに宿る魔力よ──正位置のカード『星』の導きに従い、その力を解放したまえ‥‥」

 “守護星球”の魔法が発動した。白銀の光の球が出現し、衛星のように軌道を描いてティーナの周囲を巡りはじめる。

 白の放った小光球が射程内に侵入した瞬間、白銀の光球は瞬時に小光球めがけ襲いかかり、それらをまとめて撃ち落とした。

「なかなかやるわねぇ。でも、防御だけじゃアタシに勝てないでしょ? ‥‥フフ、あなたの生き方そのものよね、まるで」

「‥‥‥‥」

 ティーナの手から、カードがぽとりと落ちた。

「‥‥そう、その通りです‥‥」

 自分の心を守ることで精一杯で、何一つ自分の力では解決することができない。

 どうやって戦えばいい? どうやって生きていけばいい? このまま自分の殻に閉じこもりつづけていくしか、方法はないのか?

「肉体同様、精神も痛めつけられることによって成長するわねぇ。あなたは激しく傷つきながら生きてきたぶん、潜在的なパトスの力は常人をはるかにしのぐわ。けれどその才能も、屈折した心のせいで無価値になっている。‥‥自分を傷つけることばかり上手くなってもしょうがないのよ。時には相手の心に踏み込むことも必要だわねぇ。あなたは他人への優しさを言い訳にして、けっきょく自分しか見ていないのよ。そうやって、純真な聖女ぶって、これからも生きていくつもり?」

 ティーナは唇をきつく噛みしめた。薔薇色の唇の端から一筋の血が流れる。

 彼女はゴーレムに背を向け、後ろも見ずに逃げだした。

 臆病。脆弱。卑怯。──そんな言葉が頭の中を駆けめぐる。

 でも、それしかできない。自分に他に何ができるというのか。

 どれぐらい走ったのだろう。‥‥涙で前など見えはしない。ティーナは水たまりに足をとられ、前のめりに転んだ。

 ティーナはよろよろと身を起こした。

 服も、手足も、顔も、髪も、雨上がりの泥にまみれている。自分には似つかわしい姿だ。

「私は、汚れている‥‥」

 濡れた前髪から、泥水の雫が一滴落ちた。

「そうね、ティーナ。逃げてみて初めてわかることもあるわねぇ」

 白は、爪先でくるりとターンした。彼女たち二人の周りには、ちょうど円を描くように七つの寺院が建てられている。

「ついでに、もっといいことを教えてあげる。あなたも信じている、神というものについてね」

 白はまず、第一神アルーの《太陽》の寺院のほうを向いた。

「太陽は、正義と絶対的な規範の象徴。それは全ての生命に必要なもの。でもそれも行き過ぎると、近づくもの全てを焼き滅ぼすことになるわねぇ」

 白は次に、第二神ヴィシュヌの《月》の寺院のほうに目を向ける。

「規則的に満ち欠けする月は、人から知性を引き出した。だけどそれが生命の周期に根ざしていることを忘れてしまったとき、知性は狂気に変わるの。満月の夜の狼男のように」

 白は、第三神シャルカの《風》の寺院を見た。

「風は、言葉。地形を越え、距離を越え、そして何より人と人との壁を越えて、知識と心を伝える。‥‥けれどいつしか言葉は、人を傷つけるための道具に成り下がった。そうしているうちにいつか、風は止まる」

 白は、第四神クライスの《海》の寺院を見た。

「水は生命を生み、育て、癒す。けれども水はそもそも無形。他の強大な力によって、たやすく形を変えられ、流れを変えられてしまう。それが平和というものの宿命なのよ」

 白は、第五神アムティラスの《森》の寺院を見た。

「森は、目立たぬ大きな力。樹々は黙して語らない。自分たちがいかに自然を支えているかを。‥‥それは、樹々の復讐なのかもしれないわねぇ。愚かな過ちを積み重ねていく人たちを、心の中でせせら笑いながら見ているのかもよ。いつか人が滅びを迎える日を、長い命で楽しみに待ちながら」

 白は、第六神オーディーの《大地》の寺院を見た。

「大地は母性の象徴ね。人は土から糧を授かり、死ねば土に帰る。だけど、土が人を生むわけじゃない。母なんかじゃないわねぇ。‥‥人がなぜ、何のために生まれてくるのか? その答を大地は決して教えてくれない」

 白は、第七神ゼウシスの《炎》の寺院を見た。

「誰にも従わぬはずの炎。それを自らの手で作りだした日から、人の歴史は始まったわ。人は炎を大事にする。怒りの炎が、自分にとっての悪を浄化すると信じている。その炎こそが全ての悪の源だということに、どうして気づかないのかしら」

 最後に、白は、まっすぐにティーナを見すえた。

「わかる、ティーナ? この世に神なんていないのよ。‥‥いいえ、本当はいたのかもしれない。でも人は、都合の良い偽りの神を創ることで、本当の神を殺してしまったわ。最大の冒涜だわねぇ。真の神に対しての」

 ティーナは、ようやく口を開いた。

「そういうことを口にする人は、あなたの他にもいます。けれども私は信じません」

「フフ‥‥そうね、そう言うと思ったわ。──人は己の姿に似せて神を創り、その肋骨を抜き出して宗教を創った。つまり神とは人にとっての厳格で力強い理想の父親像、宗教とは人を優しく受け止めてくれる理想の母親像なんだわねぇ。だから男は、神そのものより宗教という組織にこだわる。女は、恋する乙女のように盲目的に神に傾倒し、宗教組織自体にはそれほど重点を置かない。‥‥このことだけでも、神と宗教が人の心の産物でしかないことを証明するには充分ではなくて?」

「それは‥‥」

 パチパチパチパチ──。

 そのとき、拍手の音が聞こえてきた。

「いや、長ったらしい説教、ご苦労さん」

 不精髭を生やした中年の男が、酒ビンを片手にこちらにやってくる。

「あんたが人間なら、ウチの教師としてスカウトするところなんだがな」

「誰っ!?」

 男は酒ビンをあおりつつ、白に向かって答えた。

「オレか? オレはキラムってんだ」

 一瞬だけ、その場がシーンと沈黙した。

「‥‥ほらな。名前だけ聞いたところで、どうなるもんでもないだろ。無意味な質問はするんじゃねぇよ」

「あ、あなたは‥‥」

 ティーナはその中年男を知っていた。知っていて当然だ。

「〈僧〉の理事キラム様‥‥」

 八大理事の一人で、七つの寺院を統括し、事実上この学園の全ての僧侶のトップに立つ男。そのキラムが、なぜこんな所にいるのだろう。

「お。オレのことを知ってんのか。嬉しいじゃねぇか、ティーナ」

 驚いた顔のティーナに向かって、キラムはにやりと笑った。

「僧侶科の優等生の顔と名前ぐらいは覚えてるぜ。オレもいつまでもこんな面倒な仕事を続ける気はないんでね。後継者候補には今のうちから目をかけておくんだよ」

 そう言ってキラムは、白のほうに向き直った。

「そういうことで、理事としての仕事を果たさせてもらうぜ。お前はオレが倒す。ティーナのことはオレが面倒を見てやるから、心配すんな」

「フフ、どんなに偉いのか知らないけど、あなたもしょせん僧侶でしょ。一人でアタシに勝てるかしら」

「はぁ? 寝言は寝て言えよ、おい」

 キラムは酒ビンをグッとあけた。

「‥‥ありゃ、もう空かよ。くそったれ」

「余裕を見せようったってムダよ! 来ないならアタシから行くわね──え!?」

 ティーナにも、自分の目が信じられなかった。一瞬前まで自分のすぐ隣にいたキラムが、すでにゴーレムの背後を取っている。

「お前ごときに、魔法なんざ必要ねぇんだよ」

 キラムは、酒ビンをゴーレムの脳天に思い切り振り下ろした。ビンが砕け散り、小さなガラスの破片となって飛び散る。

 それと同時に、ゴーレムの身体も白い塵と化して四散した。

「いちおう聖職者の一撃だ。楽に死ねたろ? たとえ作られた魂でもな」

 キラムは壊れたビンを捨て、ティーナに歩み寄った。

「‥‥あ、ありがとうございます、キラム様。──でも、どうして私なんかを助けてくださったんですか?」

「教師が生徒を助けるのに、理由などいらねぇよ。ま、強いて言えばヒマだったからかな」

 キラムはくたびれたズボンの尻ポケットから、別の酒の小ビンを取り出した。

「あ、あの‥‥」

「ん? 何だ?」

「さっきから気になっていたんですけど‥‥そのお酒もさっきのも、もしかして奉納品じゃ‥‥? 私、ラベルに見覚えが‥‥」

「ああ、そうだぜ」 キラムは涼しい声で答えた。「まっ、そう固いコト言うなよ。どうせ神々の連中は酒なんて呑めやしねぇんだからな。あのまま放ったらかしにしておいちゃ、自然の恵みと人の努力に対して申し訳ないだろ」

 ここでキラムは、改めてティーナの泥まみれの姿を見回した。

「‥‥にしても、ひでえ格好だな。よし、オレの部屋に来いよ。風呂ぐらい貸してやる。前からお前さんとは話をしてみたいと思ってたんだ」

 ティーナは静かにかぶりを振った。

「そんなご迷惑はおかけできません‥‥」

 キラムは舌打ちした。

「しょうがねぇな」

 彼はいきなり手を伸ばすと、ティーナの頭の上から酒をぶちまけた。

「きゃっ!?」

 思わず悲鳴を上げるティーナに、キラムはいけしゃあしゃあと言った。

「すまん。手がすべった。こりゃあオレの責任だな。ぜひオレの部屋の風呂を使ってくれ」

 そう言ってキラムは強引にティーナを連れていこうとする。

「‥‥と、その前にだ。どこも怪我はなかったのか?」

 ティーナはコクリとうなずいた。そして、聞き取れないほどのかすかな声で言った。

「あのゴーレムは、私を襲ったんじゃありません」

「え?」

「ただ‥‥」

 ティーナの肩が、小刻みに震えだした。

「ただ‥‥私自身の心を映していた‥‥だけなんです‥‥」

 そしてティーナは、その場に泣き崩れた。




*                   *


「じゃ、オレはしばらく出てるからよ。そっちが風呂だ。自由に使ってくれ」

「‥‥ごめんなさい、キラム様。できるだけ汚さないようにしますから」

「いや、と言うか──」

 キラムは、ゴミやガラクタの山を左右にかきわけて道を作り、言った。

「これ以上、汚しようがないような気がするんだが」

 理事の部屋というのでティーナはもっと立派な所を想像していたのだが、キラムの部屋はとてつもない散らかりようだった。

「そうそう、ちょっと待っててくれよ」

 キラムは部屋を出ていった。しばらくして、向こう脛の辺りをさすりながら戻ってくる。

「どうなさったんですか」

「いや、隣の〈門〉の理事コネリーに服を借りに行ったんだが‥‥寝てるのにつまらんことで起こすなと言われて、蹴られた。寝起き悪いからなぁ、アイツ」

 言いながら、キラムはティーナに服を手渡した。

「すみません、私のために‥‥。それに、コネリー様の服なんかお借りしていいんですか?」

 学園内のあらゆる封印・結界を管理する防御の要、封門委員会。それを指揮するのが〈門〉の理事コネリーだ。

「ああ、気にするな。あんな一生独身確定の鳥オバハンより、美少女に着てもらったほうが服も幸せだろうさ」

「──あら、それは興味深いお話ですわね」 扉が開き、女性が顔を覗かせた。

「こ、コネリー‥‥!」

「私の服、普通の人には背中が寒いでしょうから。ショールを持ってきてあげたんですけど」

 扉の隙間から、コネリーの肩ごしに白い翼が見える。言われてみれば、渡された服の背中には二つの細長い穴が開いている。

「キラム、ちょっとこっちにいらっしゃい」

「じゃ、じゃあ、ティーナ。勝手に風呂に入っててくんな」

「ごゆっくりね。キラムはしばらく帰ってこない予定ですから」

 キラムは、ナイトガウン姿のコネリーに引きずられて行ってしまった。

 ティーナがシャワーを浴びて汚れを落とし、借りた服を着おわったとき、ちょうどノックの音がした。

「ティーナ、オレだ」

 鍵を開けると、キラムが悪態をつきながら入ってきた。

「くそっ。結界を張って人を閉じ込めたあげく、三十分もねちねちと厭味を言いやがって。なんて可愛くない女だ。神への信仰心はともかく、もっとオレに敬意を払えっての」

「‥‥ごめんなさい」

「ティーナが謝る必要はねぇよ。さて、その辺にでも座ってくれ」

 キラムは、ソファの上にうずたかく積まれた本や書類を床に蹴落とした。

「お茶でも入れよう」

 台所に向かい、キラムは何やらガサゴソやりはじめた。幾つかの山がなだれを起こす。やがて綺麗なカップとポットを探り当て、キラムは紅茶をついだカップを二つ持って戻ってきた。

「ま、飲みな」

 しかしティーナは手を出そうとしない。

「あの、これは‥‥」

 キラムは苦笑した。

「これは自前のだ。奉納品をちょろまかしたモンじゃねぇよ」

 ティーナは安心して紅茶に口をつける。

「──まず、オレについての話をしようか。それなりに聞く価値もあると思うからな」

 そう前置きして、キラムは話しはじめた。

「オレは、タイゼルンという国の出身だ」

 ティーナはティーカップから唇を離し、言う。「‥‥あの経済大国ですか?」

「それは表面だけさ。単に富の分布が偏っているってだけの話だな。実際、あの国で裕福な暮らしをしてるのは一部の特権階級だけにすぎない。──オレは、あの国のスラム街で生まれたんだ」

「‥‥!」

「食べるために、殺し以外のたいがいの悪事はやったな。それでも生まれてこのかた、満腹ってヤツを味わったことがなかった。そんな所さ。不幸な生い立ちって点なら、お前さんにもひけはとらねぇと思うぜ」

 キラムは、懐かしむように目を閉じた。

「だが、不思議とオレ自身はそれほど不幸だったとは思ってない。当時は盗みも詐欺も悪いことだとは知らなかったんだが、それは自分も盗み騙されるのが日常茶飯事だったからさ。またか、ってなもんだ。‥‥あそこじゃ、誰もがその日を生きることだけに一生懸命だった。そして誰もが、いつか誰かの犠牲になることを覚悟していた。今にしてみれば、あそこは一種の理想郷だったのかもしれない──外との格差ってもんさえなけりゃな」

「‥‥キラム様は、どうして僧侶になられたんですか?」

「そうだな。さっきのゴーレムのセリフじゃねぇが、神なんてものが偽りだと気づいたからさ」

「え‥‥!?」

「たとえばターンアンデッドの魔法。あれは神の奇跡なんかじゃない。死者をもてあそぶ非道な力を、術者の優しさのパトスが打ち砕くだけだ」

 同種の存在であるゴーレムにターンアンデッドが効かないのは、そのせいである。

 ところが、アンデッドを浄化するという力を、人々が勝手に神々の聖性と結びつけたのだ。確かに強い信仰心はパトスの源となる。しかし僧侶魔法は神の力などではない。

「神が本当に存在するんなら‥‥俺は僧侶になんかならなかった。そもそも僧侶なんてものが存在する必要性がなくなるんだ。そうだろ? 神の存在を信じさせ、神の教えを説く。それをなぜ全能である神が自分でやらない? そいつはアフターサービスに欠けるってもんだ」

 まだ口調は軽いが、いつの間にかキラムの顔から軽薄さが消えている。

「本当に、この世に絶対の真理があるんなら、それは人間も含め全ての存在が内包していなければおかしい。そうでないと、どんな卑小なものであれ、絶対の真理に対立する存在が出てくることになるからな。真理を他人に押し売りしようなんてのは、最初から自己破綻してるんだよ。神を信じる者は、みんな騙されて踊らされているんだ」

 とても〈僧〉の理事の口から出たとは思えない言葉である。

「そ、それでは──」 ティーナは思わず立ち上がった。「それでは、何のために私たち僧侶がいるんですか!?」

「人々の先頭に立って、騙され、踊るためさ!」

 キラムはぴしゃりと言った。

「嘘が必要なんだよ、この世界には! この世界を覆う真実は、あまりに醜く哀しい。──人々に伝えろというのか? この世界が、魔界によって作られた影にすぎないことを!」

「影‥‥?」

 キラムははっとしたように言葉を止め、ティーナの顔を見た。

「すまん。今の言葉はとりあえず忘れてくれ。‥‥だけどな、ティーナ。このことだけは胸に刻んでおかなければならない。俺たち僧侶は道化師(ピエロ)だ。悪い意味じゃねぇぜ。素顔を隠して人々に明るい夢を与え続ける‥‥聖職なんだ」

 あまりに意外すぎる言葉に、ティーナは沈黙した。しばらくうつむいたまま、ようやくこう反論する。

「でも、この世には現実に七大神様が存在していらっしゃいます。それがどうして嘘になるんですか?」

「お前さんにも、いずれわかる。勇者ユウキとともに行動していれば、近いうちにな。‥‥さて、俺に喰ってかかるところを見ると、だいたい落ち着いたみたいだが‥‥次はお前さんが話す番だぜ」

 ティーナはしばらく黙っていた。冷めた紅茶をまた口に運ぶ。カップをテーブルの上に戻し、彼女は話しはじめた。

「キラム様のおっしゃることが正しいのならば‥‥私には僧侶の素質があるのでしょうね」

「そりゃそうだ。お前さんの才能は──」

 ティーナは首を振った。

「そうじゃないんです。‥‥私は、嘘つきなんです。ユウキさんやアーリィさんに、嘘ばかりついています。最低ですわ」

「おいおい、ティーナ」

「他の皆さんが何か強い絆で結ばれていることは、私にはわかります。あれが運命というものなのでしょう。でも、私の場合はただの数合わせに過ぎません。私がいまだに皆さんになじめていないことは、自分がいちばんよく知っています。それを必死で隠して、表面上だけ皆さんに合わせて、仲間のふりをしているんです」

「‥‥それは、お前さんが彼らと一緒にいたいと願っているからだろう。そういうのは嘘とは言わねぇんじゃないか? 単なる手段だろ」

「だとしたら私は卑怯者です。利己的です。私が抜けて、他の方に入ってもらったほうがパーティーのためになるとわかっているのに‥‥それができないんですから」

 他人を怖いと感じるのは──たぶん、独りになるのがもっと怖いから。いつ相手が自分を嫌いになるか、ティーナは常に怯えながら人と付き合っている。

「私と皆さんとの間には、見えない壁があるんです。その壁を作っているのは、きっと私自身でしょう。‥‥それがわかっていても、何もできないんです。それが私なんです」

 自分が嫌いだから、ありのままの自分をさらけだすことができない。だから人と打ち解けることができない。そうして、また自分を嫌いになる。悪循環だ。

「お前さん、自分だの他人だのにこだわりすぎなんじゃないのか? そこに線を引いちまうことはないだろう。たまには相手の好意を無条件で信用してみたらどうだ。自分の感情はとりあえず抜きにしてな。同じものを一緒に好きだと感じ、同じものを一緒に嫌いだと感じる。それが仲間ってもんだろ」

「──そうですね。皆さんがこんな私を好きになってくれるのなら、私も少しは自分を好きになれるかもしれません」

 キラムは、そう言うティーナの頭にポンと手を置いた。

「あいつらだってバカじゃない。自分が思っているほど他人は騙されていないもんだ。お前さんがどういう心の持ち主なのかを知った上で、お前さんを友人と認めているんだと思うがな」

「そうでしょうか‥‥?」

「まあ、お前さん自身が成長していく必要があるのも確かだ。しかし一朝一夕で成長できるのなら誰も苦労はしねぇ。何より、自分一人で自分を変えられるほど、人は強くも賢くもない。今はあいつらと共に戦うことが、いちばんの道だと思うぜ」

 ティーナは下を向いたまま、長いこと黙っていた。

 かなりの時間が過ぎてから、ティーナはゆっくりと席を立った。

「‥‥わかりました。私にだってかけらほどのプライドはありますもの。このまま自分から投げ出してしまうのは嫌です」

「ただし、辛いぞ。お前の対戦相手は自分自身だ。どっちに転んだって傷つかずには終わらない」

 ティーナはうなずいた。

「よし。迷いが晴れたら、もう一度オレの所に来い。そのときは、僧侶魔法の最高奥義でも伝授してやるさ」

 本気とも冗談ともつかぬ口調でそう言い、キラムはティーナを送りだした。

 部屋を出るときに、ティーナはちらりと机の上の置き時計を見た。長針と短針が真上で重なろうとしている。もうすぐ十二時だ。





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