魔仙アタラクシア
──ここは、魔界。全てが始まり、そして終わる場所。
[第五章 遙か遠くへ過ぎ去りし未来]
淡い光に照らされた薄暗い室内で、一人の男が安楽椅子に身体を預けていた。すらりと通った鼻筋に小さめの眼鏡を乗せている。理知的な雰囲気の男である。
彼の目の前には、正八面体の青い宝石が浮いている。彼はそれに向かって静かに話しかけた。
「私の名は魔仙アタラクシア。永遠の平静を望む者‥‥」
彼が言葉を発するたび、宝石がチカチカと瞬く。
「全ての始まりであり、元凶となった第一次侵攻‥‥それよりちょうど千年と二一四日、20時間42分が過ぎた。とは言っても、もはやこの魔界では暦も時間の概念も無意味なものだ。それでもなお回りつづける時計の針の如く、私もただいたずらに無為な時間を過ごしている」
室内には他に誰もいない。ただ、彼の言葉だけが静かに流れていく。
「私のこの言葉を聞くのは誰だろうか? いや、はたして聞く者がいるのだろうか? それでも私は、全ての記録をここに残すことにする。過ちを繰り返させぬこと、今となってはそれが私たちの務めであると考えるからだ。──そうして時の番人を気取るのが、魔界一の天才たる私には似つかわしくもあるだろう」
アタラクシアは、そこでしばらく言葉を止め、間を置いた。
「‥‥黒の勇者ユウキの出現により、運命の歯車はきしみながら動きだす。彼を殺そうとする者、彼を頼みとする者、彼を愛する者、全ては第三次侵攻という舞台に集うことになる。そして、彼の手により世界は終わる」
眼鏡を指で押し上げ、安楽椅子を揺らしながら、彼は続ける。
「運命はもはや誰にも止められない。ならば私は、その歯車に油をさすことに自分の生を見いだすことにしよう」
アタラクシアは指先をすっと動かした。彼の言葉を蓄えた宝石はその指の動きに従って、そのままふわふわと宙を漂い、自ら壁の棚におさまった。
「私の名は魔仙アタラクシア。永遠の平静を望む者‥‥。しかし、私の心は揺れはじめている」
アタラクシアは上を見上げ、そして目を閉じた。その閉ざされた瞳は、はるか遠い場所を映し出している。
「──君の存在は私を変えていくよ、ユウキ君」
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