求めているのは言葉か、心か












 これから、ラグナロック学園に入学して初めての授業が始まる。アーリィは少し緊張しながら、空いている席に座った。周りは自分と同じ新入生ばかりだ。

 授業が始まってしばらくして、アーリィは右隣の女の子が教科書を持っていないことに気づいた。

「あれ、キミ、教科書どうしたの?」

 アーリィが聞くと、気の弱そうなその女生徒は、泣きそうな顔で答えた。

「その‥‥落としちゃったの」

「探してみた?」

「それが‥‥すぐ気が付いて探しに行ったんだけど、変なエルフの先輩が『拾ったものは俺のものだ』って言って、返してくれなくて‥‥」

 上級生のくせに、なんとひどいことをするのだろう。アーリィは憤慨した。

「じゃあ、ボクのを一緒に見るといいよ」

「本当? ありがとう!」

「なっ‥‥!? あんた、本気なの?」

 左隣の女生徒が、アーリィたちの会話を耳に挟んで声を上げた。

「本をなくしたのはその子の責任でしょ。‥‥いい? あたしたちは冒険者の資格試験のときにはライバルになるのよ。そのライバルに余計な情けをかけるなんて、どうかしてるんじゃないの」

 ──それが、パイだった。

 アーリィはそれを聞いて、教科書を右の女の子のほうに押しやった。

「それ、あげる。ボクはこの子に見せてもらうから」

「はぁ!? あんた、何を言ってんの。どうしてあたしがあんたに教科書を貸さなきゃいけないのよ」

「だって‥‥ライバルがどうこうとか忠告してくれたのも、ボクのためを思ってでしょ? だったらついでに教科書ぐらいいいじゃん。試験のときはライバルだって言うんなら、ライバル視するのは試験のときだけで充分だと思うけどなぁ」

 アーリィはパイに向かってにっこりと笑いかけた。

「仲良くやろうよ。それが一番だよ」

 ──けっきょく、アーリィとパイはそれから一年間、一冊の教科書を二人で使った。




   第四章 トリコロールの虜



 ノックの音がした。

 自分の部屋で、図書室から借りてきた魔技術についての資料を呼んでいたユウキは、書物を置いてドアを開けた。

「ユウキ‥‥ちょっと、いいかな?」

 アーリィの笑顔がそこにあった。

「昼はごめんね、勘違いで殴ったりして。反省してます」

 部屋に入るなりまず、アーリィが言った。

「いいよ、気にしてないから」

 アーリィがベッドに腰かけるのを見届けてから、ユウキは反対側の壁にもたれるようにして立った。そして、向かい合ったアーリィに言う。

「‥‥二度目だな、こういう会話をするのは」

「あはっ、そうだったね。そそっかしくて手が早いのは、なかなか治らないみたい」

 ユウキはそれには返答せず、黙って立っている。アーリィはかまわず一方的に喋り続ける。

「そう言えば、ルージャとクラウド見かけなかった? ホントに、肝心なときにいないんだから。やんなっちゃうよね──」

「何かあったのか、アーリィ」

 突然、ユウキがアーリィの話を鋭くさえぎった。

「え? 何か‥‥って?」

「足音が俺の部屋の前で止まってから、ドアがノックされるまで三分ほど間があった。俺と話をすべきかどうか、迷ってたんじゃないのか? それに、無理に明るく振る舞っているみたいだけど、表情の暗さまでは隠せていない。俺でもそれぐらいわかる」

 今度はアーリィが黙り込む番だった。ややあってから、ぽつんと言う。

「ボクね、トゥインクル・スターズを抜けようかと思うんだ」

 ユウキの返事はない。アーリィは無理に笑顔を作って、ユウキを見上げた。

「べつにユウキたちのせいじゃないよ。やっぱりボクには、実習パーティーなんてまだ早かったって言うか‥‥ねえユウキ、聞いてる?」

「いや」 ユウキは短く答えた。「何があったか知らないけど、たぶん今のアーリィは、正常な判断能力を失っているんだと思う。そんな君の言葉をそのまま受け止めたところで、俺のためにも、君のためにもならない。無意味だ」

「‥‥厳しいなぁ、ユウキは」

 短い沈黙のあと、かすれた声でそう言って、アーリィはベッドから立ち上がった。

 確かにユウキの言っていることは正しい。こうやってユウキの部屋を訪ね、ユウキに頼ろうとしていること自体が、パイの怒りの根源なのだから。これが解決につながるはずがない。

「だけどね、ボクもう何が何だかわからなくなっちゃって‥‥どうしようもないんだよ。そう、ボクは一人じゃ何にもできないの。だからボクは、一人になるのが、他人から嫌われるのが、すごく怖いんだ」

 アーリィは何かに憑かれたように、感情をぶちまけはじめた。

「ボクはずっと、みんなに優しくしようとしてきたよ。嫌われたくなかったから。できるだけ周りに気を遣って、みんなが気持ち良くいられるように頑張ってきたつもりだった。‥‥でもそれは、自分を飾ってみんなを騙してきただけだったんだよね。そのせいで、大事な人に嫌われちゃったよ‥‥バカみたい」

 アーリィはゆっくりと顔を上げた。ユウキは唇を噛んだ。当然さっきから気付いてはいたが──実際にアーリィが泣いているのを見たのは、初めてだった。

「ボクはただの、嘘つきの八方美人だったんだ‥‥」

 異性の前で泣く。以前のアーリィなら、そんなことは絶対にしなかっただろう。

 だが今は、未知の感情に身をまかせたほうが、楽になれた。アーリィはそっとユウキに向かって右手を出した。

 さっき壁を殴ったときの傷だろうか。手の甲の皮がむけて、乾いた血がこびりついている。

「痛いの。とっても痛いの。‥‥だから、優しくしてよ‥‥」

 ユウキはアーリィの傷ついた手を見た。

(アーリィの手って、こんなに小さかったっけ‥‥)

 あと一歩踏み出せば、その手に触れることができる。ユウキは迷った。アーリィが濡れた瞳でじっとこちらを見つめている。

 ユウキは目を閉じ、大きく息をついた。そして静かに言った。

「──抱きしめて、髪でも撫でてやれば、それで満足なのか?」

 アーリィの手が、かすかに震えた。

「君が本当に望むことなら、俺は出来るかぎりのことをする。けれども、今は──俺じゃ、君の力になれない」

 ユウキは、決してアーリィを拒絶したわけではない。他に彼女が取るべき道があるということを、ユウキなりの言い方で表現しただけだ。

 普段のアーリィなら、そのことを悟っただろう。しかし──

 アーリィは、ユウキから離れるように後ずさった。

「ユウキも、ボクのことが嫌いなんだ‥‥」

 両手を握りしめて、彼女は叫んだ。

「ユウキも、パイも、みんなボクを捨てちゃうんだ‥‥! 父さんみたいに‥‥!」

「アーリィ、俺だって君の存在に甘えてしまいたくなるときがある。でも、それじゃダメなんだ。俺たち一人一人が、もっと強くならなくちゃいけない」

 だが、もはやアーリィにはユウキの言葉も耳に入っていなかった。

「ボクを嫌わないで‥‥捨てないで‥‥お願い‥‥」

「アーリィ──」

 言いかけて、ユウキははっと口をつぐんだ。顔つきが一変する。

 ユウキはいきなりアーリィの上に覆いかぶさり、ベッドに押し倒した。

「え‥‥ユウキ‥‥っ!?」

 乾いたような、そして激しい音が弾けるようび響いた。青い光がドアをぶち抜き、さっきまでアーリィが立っていた所を通りすぎていった。

 ユウキがアーリィの耳元で鋭く囁く。

「アーリィ、武器は持ってるか?」

 わけがわからぬまま、アーリィは首を横に振る。

「そうか。仕方ないな」

「なに? どうしたの?」

「来た。──敵だ」

 その一言で、アーリィは少し冷静さを取り戻した。

「敵、って‥‥!?」

「説明はあとだ。とりあえず外に逃げよう。ちょうどこの前ルージャが使ったロープがある」

 ユウキはベランダへの窓を開け、鉤付きのロープを手すりに引っかけて地面に下ろした。あのパーティー検定の打ち上げの際、ルージャが窓から入るのに使用したものである。深い意味もなく残しておいたのだが、まさかこんな形で役立つとは、ユウキも思ってもいなかった。

 アーリィを先に行かせ、ユウキは剣を持ってロープを下りた。

「ここは俺が戦う。アーリィは逃げろ‥‥と言っても、君は聞かないだろうな」

 アーリィはうなずいた。

「でも二つだけ約束してくれ。一つは、この場は俺にまかせて、危険な真似はしないということ」

「もう一つは?」

「自分を傷つけるのはもうやめるんだ。そうでないと、俺が戦う理由がなくなる」

 ユウキは、アーリィが部屋に来てから初めて、彼女の瞳をまっすぐ見つめた。

「俺は今でも、自分は他人を近づけずに生きるべきだと思っている。それなのにアーリィを受け入れてしまったのは、俺の弱さだ。その責任は取らなくちゃいけない。巻き込んでしまった以上、君を守らせてくれ」

 ユウキは鞘からゆっくりと剣を引き抜いた。磨かれた刀身に、アーリィ、そしてユウキの顔が映る。

「俺はたぶん、行動でしか自分の感情を表せない男だ」




*                   *


 寮の玄関に、人影が現れた。三人いる。

「初めまして、ユウキ」

 青一色の服を着た男が慇懃に礼をした。

「お前たちの目的は何だ」

 単刀直入にユウキが問う。

「あなたの命‥‥という答えでは不服ですかね?」

「あのアンデッドやダミーもお前たちのしわざなんだろう? やたらと回りくどい手を使ってくると思っていたら、今度はいきなり直接攻撃だ。行動に一貫性が全くない。何か裏があると考えて当然だろう」

「ほう、さすがですね。確かにあなたを殺すつもりはありません」

「お前たちは、何者なんだ? 少しだけど、妖魔エイラムと同じ匂いがする。あの俺のダミーともな」

「なるほど、わかりますか。それは、あなた自身も同じ匂いを持っているからですか?」

 ユウキは答えず、間合いを詰めだした。

「厳密に言えば、我々は妖魔ではありませんが‥‥妖魔と考えてもらったほうがわかりやすいでしょうね。我々は、魔界を統べる十柱の皇族妖魔の一人、魔仙アタラクシア様の使者です」

「ふはははは! 我輩の名は“赤”だ! おぼえておくがいい!」その横にいた赤い服の巨漢が、脈絡のない高笑いとともに言った。

「アタシ、“白”っていうの」純白の服の女性も続いて名乗る。

「そして私は“青”と申します。外見通りですね。我々にとっては名前などその程度のものにすぎません。お互いの区別が付けば充分なのですよ」

 その言葉を聞き、ユウキは確信した。

「やっぱりな。お前たちもゴーレムの一種ってわけか。それも、比べ物にならないほど高級な‥‥」

「その通りです。我々は、ある任務のため、アタラクシア様に作られました」

 青は腰に吊るした細身の剣を抜くと、ユウキめがけて襲いかかった。

「ですから私は! ユウキのように戦いに迷いを感じたり、理由をこじつけたりしません! ただ使命を忠実に遂行するのみです!」

 ユウキは青の攻撃を半身になってかわし、逆に青の身体に切りつける。

 青の胸に傷が走る。しかし、血や体液はいっさい流れない。

「速いですね、ユウキは」 先程までと変わらぬ余裕めいた口調で、青は言う。「もっとも、実際のスピードはあくまで常人並。ただ、相手の動きを先読みする判断力と、逆に自分の感情は読み取らせない冷静さによって、対戦者の目にはとてつもない速さに見えるのですね」

「それがどうした」

「ユウキの強さを分析し、弱点を教えてあげようと言うのですよ」

「──ふざけるな」

 ユウキは上段から剣を振り下ろした。青はそれを、自分の左腕で受け止めた。刃が腕の三分の一ほどまで食い込み、そしてそこで動かなくなる。

「ほら、これですよ」 青は、剣を食い込ませたまま微笑みを浮かべた。「私の身体はそれほど頑丈でもありません。なのにユウキの剣は私の腕を斬り落とすこともできない。──非力なのです、ユウキは!」

 青は左腕を振るった。ユウキは剣ごと吹き飛ばされた。

「今のユウキの肉体からは、確かに毎日の厳しい鍛練の結果が感じられます。しかしそれはあくまでこの学園に召喚されてからのこと。‥‥たとえばそちらのお嬢さんをご覧なさい。小さな頃から野山を駆け回り、あるいは家の手伝いとして重いミルクを運んだりしている。対してユウキは、育った環境と内向的な性格のため、そういった幼少時からの肉体的な下積みというものがほとんどない。しょせんは付け焼き刃の筋力なのです」

「待て。‥‥お前、知っているのか? 俺がどこから来たのかを‥‥?」

 今度は青のほうがユウキの質問に答えず先を続ける。

「その筋力の差をカバーするのがパトスの力です。しかしユウキのように感情を押し殺す戦い方ではパトスは働きません。人間相手ならそれでも勝てるかもしれませんが、高位の妖魔には全く通用しませんよ」

「‥‥自分が非力なのは、とっくに気づいているさ」 ユウキは立ち上がり、剣を構え直した。「だけど、それでも効果的な打撃を与える方法はある」

「では、それを見せてもらいましょう」

 再び青がユウキに襲いかかる。それと同時にユウキも踏み込んだ。すれ違いざまに、一撃──青の胴体に深い切れ込みができた。

「カウンター、それがあなたの導きだした答というわけですね。確かにこれは相当なものです。カウンターというものは、相手が動いてからでは遅い。逆に自分が倍のダメージを受ける羽目になります。相手の動きを事前に察知して、同時に全力で踏み込まなければならない。剣や武器を振りかざして自分に襲いかかってくる相手に、ですよ。一歩間違えれば確実に死にます。‥‥何がユウキに、無謀とも言えるその勇敢さを与えているのでしょう?」

 青は、離れた所にいたアーリィに顔を向けた。

「どう思われますか、お嬢さん? そのようなことを考えたことがありますか?」

 青は左の人指し指を、自分の額に当てた。

「私は、密かにユウキの心を覗かせていただきました」

「‥‥なんだって?」

「そしてわかりましたよ。ユウキは、妖魔に勝利し世界を救うことが、自分の唯一の存在意義だと思っています。彼にとって敵に負けることは、どちらにせよ存在の全否定、つまり死です。危険を冒し、命を削ってまで勝利を求めるのも当然と言えるでしょう」

「その通りだ。俺には、敗北して生き延びるという逃げ道は用意されていない」

 アーリィは、そう言うユウキの顔を見た。相変わらずそこからは何の感情も読み取れない。

 だが──あの冷静な戦闘技術には、そんな悲痛なユウキの想いが込められていたのだ。

『俺は、行動でしか自分の感情を表せない男だ』‥‥さっきのユウキのセリフが心に響く。

 自分はまたしても、何も気づいていなかった。何もわかっていなかった。

「フフフ。あなた、可愛いわねぇ」

 突然、背後で声がした。ギクッとして振り返ると、いつの間に移動したのか“白”がそこに立っていた。

「ユウキのことが好きなの? ‥‥でも、今のあなたには、ユウキの側にいる資格はないわねぇ」

 アーリィは後ろに飛びすさり、身構えた。そこにユウキが叫んだ。

「ダメだ、アーリィ! 今の君は戦うべきじゃない!」

 ユウキが地面を蹴った。次の瞬間、白は彼の体当たりで吹き飛んだ。

「一瞬でこの距離を!? 速すぎるわねぇ!?」

「‥‥パトスの力ですね」

 青が言った。ユウキは地面に膝をつき、肩で息をしている。

「慣れない力です。無理もありません」

 そうだ。アーリィは初めて聞いた。いつも静かな口調でしか喋らないユウキが、大声で叫ぶのを。

「ユウキ!」

 駆け寄るアーリィを、ユウキは手で制した。

「下がっていてくれ。君は俺が守る」

 剣を支えにして、ユウキは立ち上がる。

「落ち込んでる君に何もできない自分が許せないんだ。だから、これぐらいはやらせてくれ」

 それを聞き、青はわずかに意外そうな顔をした。

「なるほど。ユウキは少しだが変わりつつありますね」

 自分を許せない。それは、ユウキが最初に暴走したときとよく似た精神的状況だ。だが今回、彼はあくまで自分自身の感情で敵を倒そうとしている。

「‥‥ならば、今ここで決着をつけてしまうわけにはいきません──“紫”!」

 突如ユウキの足元の地中から、大量に土を巻き上げて紫色の服の男が飛び出した。「おうよっ!!」

 紫の手にした短剣が、ユウキの背に深々と突き刺さった。ユウキは声もなく前のめりに倒れた。

「ユウキっ!!」

 しかしアーリィの前には白が立ちはだかる。

「ユウキは、しばらくアタシたちが預からせてもらうわねぇ」

「いま我々に立ち向かうべきなのはユウキではない。あなたですよ、お嬢さん。‥‥では紫、行きましょう」

 動かないユウキを軽々と抱え上げ、青は言った。

「おし、まかせなっ!」

 紫が呪文を唱えると、四体のゴーレムとユウキは、光に包まれて消えた。

「ユウキっ!!」

 ‥‥叫んでも、もはやその場には音すら残っていない。




*                   *


 ユウキは連れ去られた。妖魔の使者を名乗るゴーレムたちによって。

 いくら辺りを捜し回っても、手掛かり一つ残されてはいない。なす術もなく寮の自室に帰ったアーリィは、一人ベッドの上で毛布にくるまっていた。

「ユウキ‥‥ボクのせいで‥‥」

 自分がユウキの部屋に行ったりしなければ、ユウキは一人で逃げ延びられただろう。どんな事情があったにせよ、それだけは厳然たる事実だ。

 殺すつもりはないと青は言っていたが、今頃どんな目に会っていることだろう‥‥。

 アーリィは目をつぶって、ごろりと寝返りを打った。

「でもボクは、一人じゃ何もできないんだよ‥‥!」

 もう嫌だ。みんな嫌だ。このまま全てを忘れてしまえば、どんなにか楽だろう。

 ──喉が渇いた。そういえば夕食もまだだ。アーリィは毛布を蹴り飛ばして起き上がった。ふと、壁に無造作に立てかけられた呪いの剣が目に映った。

「‥‥いっそ、酔っぱらっちゃおうか」

 呪いのことが頭をかすめる。アルコールに反応して彼女が剣に、そして呪いの剣がカシムという中年男に変身してしまうのである。

「オッサンと入れ替わるってのもゾッとしないけど。みんなの話を聞いてると無茶苦茶な人みたいだし。──ボクの親父も、もしかしてそんなヤツだったらどうしよう」

 残念、ズバリ正解。

 とにかく、アーリィはドアを開けて廊下に出た。何であれ、今の現実から逃げることができさえすれば、それでいい。

 寮には飲み物の魔法販売機が備えつけられている。アーリィがそこに銅貨を投入してボタンを押すと、コインに封じられていた魔力によって装置が作動し、自動的にビン詰めのエール酒が転がり出てきた。アーリィはビンを片手に部屋へ戻る。

「‥‥全部、消えちゃえ」

 最後にもう一度だけつぶやき、アーリィはビンの口から直接エール酒を喉に流し込んだ。




*                   *


「‥‥む?」

 カシムは周囲を見渡した。多少乱雑気味の、女性の部屋である。

 サイドテーブルの上の酒ビンと床に落ちた剣を見て理解する。

「そうか。あのアーリィとかいう娘さんの部屋か」

 彼は、そのアーリィが自分の娘の通り名だとは全く知らない。自分のために、将来のある若い少女に大きな迷惑がかかっているかと思うと、心苦しかった。

「酒も自由に飲ませてやれないとは‥‥」

 自分のひとり娘と同年代だと考えると──本人なのだから当然だが──なおさらだ。

 早くまた元の剣に戻ってやろう‥‥いや、その前に一言でも詫びの言葉を残しておくのが礼儀であろう。

 いつもそう思ってはいるのだが、なかなか機会がなかった。だが今は、周りに人もなく、机の上には筆記用具がある。決して顔を合わせることのない相手にメッセージを残すため、彼は机に近づいた。そしてそこに置かれていた紙片に気付く。歴史の試験問題だ。そのうちの一問──

「『神暦九八五年に、ランセル王国で起こった内乱により王位に就いた女帝の名を答えよ』だと?」

 無意識のうちにカシムは紙を手に取っていた。節くれだった褐色の指先が、細かく震える。

「ミリアーヌ一世‥‥ミリアン!!」

 ビリッ。

 問題用紙が真っ二つに裂けた。

「そうとも、覚えておるぞ。お主が私にした仕打ちを。そうまでして王位が欲しかったのか‥‥? ユリティアは、お主にとっても姪に当たるというのに!」

 生まれたばかりの娘を人質にとられ、また、無駄な血を流したくなかったばかりに、彼──カシムことランセル国王マディスバート五世は王の座を降りた。彼は国を追われ、妻子とも引き裂かれることになった。

 名を変え身をやつした彼は、傭兵となってランセル王国に戻り、ミリアーヌ女王の暗殺を企てる。しかしそれも失敗に終わり、ザクマという宮廷魔術師に強力な呪いをかけられてしまったのだ。

「いいザマだわ、マディス! 一生その姿で暮らすがいい!」 ミリアンの高笑い。

 剣となった姿で、数奇な運命を経て彼はラグナロック学園に流れ着いた。地位も家族も、人間として生きる権利さえ半分以上、奪われてしまった。

「我が娘ユリティア‥‥あれも不憫な子だ。世が世なら一国の王女として、何一つ不自由なく暮らせたろうに‥‥おそらく、自分の本名すら知らずにおるのだろう‥‥」

 太陽が沈み、室内は少し薄暗くなりはじめていた。

「ミリアンよ、私は片時もこの恨みを忘れたことはないぞ。それは妻も娘も同じはずだ」

 だがアーリィは忘れている。

「しかも、ユリティアはただの王女ではない。王家の中でも特別な使命を受け継いだ娘だ。──時が迫っている。もはや猶予はならんというのに」

 いっそこのまま妻と娘を探しに行こうか、とも考える。しかし、親元を離れて一人で暮らしているこの女生徒のことを思うとそうもできない。‥‥実は彼女こそがその娘なのだが。

 カシムは嘆息し、手近な紙を引き寄せた。彼は少しの間、握ったペンを走らせていたが‥‥。

「駄目だ! ずっと剣になっていたので字がうまく書けんッ!!」

 癇癪を起こしたはずみに、腕に力が入る。彼の怪力はペンをポッキリ折ってしまった。インクが飛び散る。

「むう‥‥」

 カシムは、机の上の惨憺たる状況を眺めた。

 やおら彼はエール酒のビンを手に取り、口に含んだ。




*                   *


「──何だよ、これっ!? さてはあのオッサンの仕業だなっ!」

 折れたペン。飛び散るインク。破かれた問題用紙。

「乙女の部屋で無茶苦茶するなぁっ!」

 ひとしきりわめいて、アーリィはがっくりと肩を落とした。どうしてこう、何もかもがうまくいかないのだろう。

「どうしてボクが、こんな思いをしなきゃいけないんだ‥‥!」

 みんな、嫌だ。いっそのこと、全てを忘れてしまうことができたら‥‥。

 『世が世なら王女様』は、近くに置いてあったクマのぬいぐるみを引っ掴むと、腹立ちまぎれに渾身のボディブローを叩き込んだ。

 そのとき、ふとユウキの顔が浮かんだ。

 このぬいぐるみは、ダンジョンでユウキからもらったものだ。捨てる気にもなれず、パーティー検定の記念として置いておいたのだった。

 そう言えばそもそも、検定を受けたのは何のためだったろう。実習パーティーを組もうと思った最初のわけは?

「そうだった‥‥」

 アーリィはつぶやいた。

「‥‥そうだよね、ユウキ‥‥忘れることは、楽なんかじゃないんだよね‥‥」

 そう、ユウキはそのことで苦しんでいるのだ。自分が何者なのかわからずに。

 逆に言えば──どんな辛い内容であっても、ユウキやパイとの思い出があるから、今の 自分があるのだ。

「ボクは、馬鹿だ」

 アーリィはそう言った。だが、先程までとは言葉の響きが違う。

「でも、馬鹿だからって、考えるのをやめていいわけじゃない」

 考えなければならない。これから何をするべきか。

 アーリィは、今はっきりと自覚した。自分がどれだけユウキに頼っていたかを。

 これまでは、自分がユウキを引っ張っているつもりでいた。彼が感情をあまり見せてくれないことに不満を感じていた。

 しかし、あえて余計な感情を他人に押しつけないユウキの冷静さを、自分は知らず知らずのうちに支えにしていたのだ。

 楽しいとか面白いとかいった気持ちとはまた違う。ユウキといると心が安らぐ。胸の中のもやもやしたものを吸い取ってくれるような感じがする。

 こだわりを捨て、認めよう。ユウキが男だろうと、パイとの仲をこじらせる原因であろうと、ユウキに嫌われようと、側にいる資格がなかろうと―自分は、ユウキを必要としている。

 ユウキを取り戻さなければならない。パイとのことも、その他のことも、全てはそれからだ。ユウキは自分のせいで捕らわれてしまったのだから。

 じっとしていても何も解決しない。

 自分でもよく使う言葉だが、アーリィは初めてその意味を肌で実感した。彼女は、両手で思い切り自分の頬をはたいた。

「よし、行こう! ユウキを助けに!」

 弓矢と剣を手に取り、部屋を飛び出す。するとそこに一人の男が立っていた。黄一色の服──。

「あんた‥‥ひょっとして‥‥!?」

「ようやくその気になりやがりましたか、てめえ様」

 男はおかしな言葉遣いでそう言うと、校舎のほうを指さした。

「ユウキは、私たちがお預かりしてやっています。返して欲しいとお思いやがりでしたら、ボッタクルの購買部の商品倉庫まで来やがれという次第です」

「ユウキは、そこに捕まってるの!?」

「私の役目は、今の言葉をてめえ様にお伝えしてやることだけです。では、私は次にやることがありますので、失礼」

 黄は、アーリィに教えたのとは違う方向へ去っていこうとする。アーリィは迷ったが、けっきょく購買部に行くことにした。何の手掛かりも持っていなかった自分の前に、相手がわざわざ現れて嘘を教える意味はないだろう。

「‥‥待っててね、ユウキ」

 彼女は、壁にかけられた柱時計に目をやった。長針と短針が真上で重なろうとしている。もうすぐ十二時だ。





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