テンプテーション・ゴールド
盗賊の攻撃。僕はそれなりのダメージを受けた。「ガキが。俺たちに逆らうとどうなるか、これからタップリ教えてやるぜ」
ここはドニヤ。どこにでもあるような、平和でない小さな村だ。半年前に近くの山中に住みついた盗賊たちが、その原因だった。
僕は、切れた唇から滴る血を手の甲でぬぐうと、再び立ち上がった。痛みはあるはずなのだが、頭に血が上り感覚が麻痺している。
「お前らはいつもそうだ、暴力をふるえば人が言いなりになると思ってるんだ! でも僕は負けないぞ! 何度でも言ってやる、姉さんを返せっ!」
「いかんな少年。うちのボスがあの娘に首ったけ、ぞっこんフォーリンラブ状態なのは知ってるだろ? 人の恋路を邪魔する奴は‥‥」
盗賊はそう言って、略奪した食料などが積まれた馬に飛び乗った。
「馬に蹴られて死んじまえっ!!」
盗賊が鞭をくれると、馬はいななきと共に僕めがけて突っ込んできた。
慌てて横に飛びのく。
馬首の向きを変え、盗賊は高く哄笑した。
「お前らはいつもそうだ、なす術もなく怯えて逃げ回ってりゃ、自分だけは助かると思ってやがる!」
僕は拳をきつく握りしめた。確かにその通りなのだ。たった一人の盗賊にさえ、勝てない。逃げることしかできない。
他の村人たちも遠巻きに見ているだけで、誰一人、声を出すものもいない。彼らは英雄でも何でもない、ただの人間なのだから。“村人”という言葉でくくられるだけの群衆に、盗賊に立ち向かう力があるはずもなかった。
そして、それは僕にとっても同じことだ。群衆から一人切り離されたところで、群衆でなくなるわけではない。
馬の蹄が土を蹴る。
短く息を呑む音が奇妙に静まり返ったその場に聞こえ、続いて叫びが上がった。
「ジル! ──誰か、息子を助けてくれ!」
父さんだ。叫ばれた僕の名が、他人事のように耳に響く。
「お願いだ、誰か!」
群衆の中に、淡々と答えた者がいた。
「なんだ。助けて欲しかったのか。そうならそうと早く言わなければ、わからぬではないか」
鈴の鳴るような、高く澄んだ女性の声だった。盗賊に注意を向けたまま横目でそちらを横目で見ると、彼女は人込みをかきわけて僕たちのそばまでやって来た。
「というわけで、その少年は私が助けることにした。よいな?」
盗賊に向かって言ったセリフである。
「なんだ、お前は」
「旅の者だ。遠慮せずに少年を置いて逃げ去ってよいぞ」
喋りながら彼女は頭部を覆っていたフードを後ろに払い、旅行用の分厚いマントを脱ぎ捨てた。
村人たちの間にどよめきが起こった。僕も、思わず状況を忘れて彼女に見入ってしまった。話し方ではわからなかったが、どう見てもまだ10代だ。
こういう場合、まず手足や体に目を向ける人はいない。普通は最初に顔を見る。
僕もそうした。そうして不思議な後悔を覚えた。物語のクライマックスだけをいきなり見せつけられたようなものだ。これがもし夢だったら、そろそろ醒める頃合いだろう。
―それほど、その少女は美しかった。
腰の近くまである金髪の流れは、光を受けて水面のようにきらめいている。切れ長の瞳は静かに深い輝きで僕と盗賊を見すえ、吐く息に合わせてかすかに震える唇は、草花にでも語りかけているのがいちばん似合いそうだ。
絵の中から抜け出たように、彫像が魂を吹き込まれたように、人間離れした美貌の持ち主だった。こんなに綺麗な女の子は、セルナの都の辺りでも、そう簡単には見つけられないに違いない。
現実にこんな少女が存在し、この次の瞬間からも僕の前に存在し続けるということが信じられない。このまま見つめていると彼女が消え失せてしまうような気がして、僕は彼女の服装に目を移した。──再び絶句。
身なりがいい、どころの騒ぎではない。ほっそりとした肢体を包むその服は、はっきり言って豪奢のきわみだ。見方によっては薄い金属のような光沢を放つ布。どんな材質なのか見当もつかない。そして宝石や貴金属が、嫌味にならないギリギリ手前まで散りばめられている。それでいて動きやすそうな旅衣装なのだから驚きだ。いくらかかっているのだろう。ひょっとしたら僕の家ぐらいは買えるかもしれない。
僕も村の人も盗賊も、しばらく時を忘れていた。
「‥‥誰でもかまわぬから、何か反応をしてくれてもよいではないか。まるで私が馬鹿みたいだぞ、これでは」
少女はつまらなさそうに言った。僕が『人間離れ』という感想を持ったわけが一つわかった。歳に見合ったあどけなさというものが全然ない。無表情とさえ言える。
「へ‥‥へへへ、まさかこの村でこんな上玉に会えるとは思わなかったぜ。こいつは高く売れそうだ」
「売る? 何を売るのだ? 答えてみよ」
顔にそぐわないセリフが次々と飛び出す。
「嬢ちゃんに決まってるじゃねぇか」
「それはおかしい、筋が通らぬ。私は金になど困っていない。むしろ腐るほど持っている。私に売られる意志がないのに、どうしてお前が売るのだ。私はお前のものになったおぼえはないぞ」
「これからなるんだよ!」
盗賊はゆっくりと馬から降りた。
少女はまだ形の良い眉を寄せ、考えこんでいるふうだった。
盗賊が馬の鞍から手斧を取った。
少女が言った。
「‥‥言わんとするところがよくつかめぬが、要するにお前は金が欲しいのだな?」
少女は、腰にいくつも吊るされた絹袋の一つに白くしなやかな手を差し入れると、中の物を地面にばらまいた。
大量の金貨だった。
「くれてやる。苦しゅうない、早く拾うがよい。拾ったらさっさと帰れ」
「ふ、ふざけやがって、このアマ!」
盗賊は少女に詰め寄った。さすがにいきなり手斧を振り回すほど馬鹿ではない。ただの威嚇のつもりだろう。けれど少女は動じない。
「‥‥下賤の者の考えはよくわからん。お前の行動にはさっぱり理屈が通っておらぬぞ」
言いながら、彼女はちらりと僕を見た。逃げろ、という目くばせだろうか。
──だけど僕はそこまで情けない男じゃない。この女の子が何者にしろ、僕と同じ年頃の娘だけを危険に会わせてたまるものか。
僕は盗賊の馬に忍び寄ると、思いきりその横腹を蹴り上げた。
馬は飛び上がり、あさっての方向に走り出した。
「ああっ!? ‥‥待て、待ってくれ! 俺を置いていくなーっ!」
盗賊は手斧を放り出し、急いで馬を追おうとする。
「畜生、おぼえてやがれ! この借りは必ず返してやるからな!」
「断る。下賤の者がいらぬ気を遣うな」
少女の冷静な返答に盗賊は言葉に詰まり、そのまま逃げ去った。
「とことん無礼な輩だな。ああいう者たちは皆あんなふうなのか?」
少女は今度は僕に尋ねてきた。いきなり水を向けられ僕が戸惑っていると、少女は端正な顔をぐいと僕に近づけてきた。上品な香水の匂いがする。僕の鼓動は自然と早くなった。
「どうした、答えてもよいぞ」
すぐ目の前で気品ある唇が動く。
「えっと‥‥だいたいあんなもんじゃないかな‥‥」
「ふーん。そうか。ところでお前の家はどこだ? 案内してくれ」
「僕の家?」
「喋ったのでのどが渇いた。水ぐらいなら飲んでいってやろう。遠慮するな」
‥‥‥‥。
腹が立ったが──綺麗な顔を見て許してしまう自分が嫌だ。
と、父さんが駆け寄って来て頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげで息子が助かりました。あの、あなたのお名前は」
「マリナ。忍びの旅ゆえ身分は明かせぬ」
‥‥明かせぬも何も、自分で高貴な身分だと言っているようなものだ。平民がわざわざこんなことを言うわけがない。おまけにこの服装と言動。本人は自覚していないのだろうか。
「どうした、早く案内せぬと私はどこかへ行ってしまうぞ」
マリナさんは一人ですたすた歩き出してしまう。僕と父さんは顔を見合わせ、とにかく家に連れていくことにした。
「でも‥‥マリナさん、あの地面にまいたお金はそのままでいいの?」
迷ったが、マリナさん自身がああ言っているのだから敬語は使わないことにする。
「ああ、あの捨てた金か。心配いらぬ。心よい村人たちが片づけてくれている」
後ろを振り返ってみると、みんな我先に争って金貨を拾っていた。
* *
「本当にありがとうございました」家の中をもの珍しそうにきょろきょろ見回していたマリナさんは、父さんの言葉を聞いて、隣にいた僕に尋ねた。
「同じことを何べんも言うのは、この地方の習慣か?」
「‥‥それだけ感謝してるってことだよ。僕からも言わせてもらう、ありがとう。マリナさんが来てくれなかったら殺されてたかもしれない」
「ほう。庶民とはあの程度で死ぬものか」
「普通は死ぬよ!」
「私はもっと多くの野盗に襲われたことがあったぞ」
さらりと言う。どうやって切り抜けたのだろう。‥‥やはり、お金か。
「この程度の礼しかできませんが‥‥どうぞ」
母さんがスープを運んできた。
それを見て、マリナさんはかぶりを振った。
「かまわないでほしい。それほど食料が余っているようには見えんぞ、この村は」
確かにそうだった。粗末なスープだが、今の僕らには精一杯の御馳走なのだ。これと言うのもあの盗賊たちのせいだ。
「それに、どうせ庶民の食べ物は口に合わぬ」
──マリナさんは一言多い。
スープの椀を父さんの前に押しやろうとしたマリナさんだったが、そのとき木のテーブルがガタンと揺れ、スープが少しこぼれてしまった。
「ああ、すまない」
マリナさんはまた腰の袋から紙を何枚か取り出し、テーブルの上を拭いた。
紙幣だ。
「ちょっと君、それは‥‥!」
「懐紙をいちいち持ち歩くのも何だからな。こうしてお札で兼用することにしているのだ。便利だぞ」
マリナさんは汚れた紙幣をくるくると丸めると、窓から投げ捨ててしまった。
僕らが唖然として見ていると、彼女は今度はテーブルの下にもぐり込んだ。
「だいたいこの机はどうしたことだ。足の長さが不揃いではないか。だから揺れたりするのだ」
マリナさんは数枚の金貨を重ねて、床と足の間に挟み、高さを調節した。
「これでよし」
満足そうに椅子に座りなおすマリナさん。
あの金貨で新しいテーブルがいくらでも買えるということが、わかっていないに違いない。
何か言ってやろうと思ったが、彼女の天使のような顔を見るとその気も失せてしまった。悪意はないのだ、マリナさんには。‥‥とは言え少し気になった。ずっとこんな調子で旅をしていたのだろうか‥‥よく生きてたな。
「マリナさん、いったいどこから来たの? 女の子の一人旅じゃ、いろいろ苦労したんじゃない?」
「一人旅?」
僕の質問に、マリナさんは怪訝な顔をした。
「私にはちゃんと連れがいるぞ。気づかなかったのか?」
マリナさんはそう言って、ぽんぽんと軽く手を打った。
すると──
『お呼びでございますかッ、お嬢様!!』
綺麗に揃った声が響いた。家の扉が乱暴に開かれた。
わらわら。
黒装束の男たちが僕の家になだれこんでくる! 扉からだけでなく、窓枠を乗り越えても数人、おまけに火を入れていない暖炉から一人(煙突から入ったらしい)。彼らはたちまちにしてマリナさんの後ろに整列した。総勢二十人。‥‥悪夢だ。そうやって並んだ様は、さながら黒い鉄格子。
マリナさんが僕らの顔を見て言う。
「そんなに固くならずともよい。私の護衛の者たちだ」
最後にもう一人、初老の男が扉をくぐった。
「お初にお目にかかります。わたくしはマリナお嬢様の侍従、パドラムにてございます」
彼が慇懃に一礼すると、黒装束の男たちも一斉に頭を下げた。
『押忍ッ!!』
「は、はぁ‥‥どうも‥‥」
間抜けな挨拶を返す。
「パドラム、そしてお前たち。狭苦しい所だが楽にしておれ」
『はッ!!』
よくあれだけ声が合わさるものだと思う。
父さんもあっけに取られていたようだが、突然テーブルに額がつくほど頭を深く下げた。
「──ぜひ、あなた方にお願いがあります! これほどの御方の護衛をされているからには、相当腕が立つものと見ました! どうか、どうか私の娘を助けて下さい!」
「娘? どこにいるのだ?」
「昨日、盗賊たちにさらわれたんだ。僕の目の前で‥‥」
ふんふんとうなずくマリナさん。
「なるほど、盗賊というものは娘も食べるのか。‥‥なに、違う? 食べぬのなら何のためにさらうのだ?」
「それは、その‥‥いろいろと‥‥」
「盗賊のボスは娘を気に入り──娶ろうとしているのです」
「なんだ、おめでたい話ではないか。式はいつだ」
「姉さんはイヤがってるんだよ!」
ついつい声を荒らげると、後ろからパドラム氏が背筋が寒くなるような口調で言った。
「──言葉に気をつけなさったほうが、よろしいですよ」
二十人の黒服たちが四十の瞳でにらみつける。嫌だ。すごく嫌だ。
「これお前たち。大事な話の途中だ。邪魔をするでない」
マリナさんがたしなめると彼らは途端にシュンとなってしまった。
「とにかく、事情はわかった。気の毒なことだ」
マリナさんは腰の袋を外し、テーブルに置いた。袋の中身がじゃらじゃら音を立てる。
「受け取れ。庶民に遠慮は似合わぬぞ」
「あの、これは?」
「お前は息子の命を救われた礼として、一杯のスープを出した。それが、お前が子供の命に対してつけた値段ということだ。‥‥面倒なので数えておらぬが、その中には金貨で二百セタほど入っているはず」
マリナさんはその美しい顔を、眉一つ動かさずに告げた。
「──娘の代わりとしては、充分だろう?」
彼女はまた、本気で言っている。
それだけに許せなかった。
「姉さんが金に代えられるわけがないじゃないか!」
椅子が転がるのにもかまわず、僕は激しく立ち上がった。黒服たちが剣に手をかけた。
しかし当のマリナさんの反応はあっさりとしたものだった。
「ほう、そういうものか?」
マリナさんも僕に合わせるように席を立った。白魚のような指を絹の手袋に通しながら言う。
「ふむ。要するに、金より本物の娘のほうがよいのだな。ならば盗賊の所に行くしかあるまい。おい、お前。案内させてやろう」
僕に向かって言い残し、従者たちを連れてさっさと家から出て行くマリナさん。僕はそのとき、彼女が小さくつぶやいたのを聞き逃さなかった。
「‥‥まったく、下々の者の考えはよくわからん」
* *
この山には詳しいのか、と尋ねられた。それほど地理に自信はないと答えた。それからマリナさんは、道に金貨をまいたり、枝に紙幣を結び付けたりしながら歩いている。帰り道の目印のつもりらしい。呆れるというより、もう完全に僕の理解を超えていた。
盗賊たちが馬で通っているぐらいだから、この山はそれほど険しいほうではない。それにしてもマリナさんは、あの派手な格好のまま軽々と山道を上っていく。見かけによらず体力がある。
「わからないのは、マリナさんのほうだよ」
こっそり言ったつもりだったが聞かれてしまった。
「お前、何か言ったか?」
「あ、いや‥‥あのパドラムさんたちは本当について来てるのかな、って思ってさ」
「お前にはまず、あの者たちを見つけることはできまい。だが案ずるな、私の身が危なくなれば瞬時に飛び出し、敵を倒す」
そして、マリナさんはつけ加えた。
「お前の場合はどうか知らんが。とりあえず気をつけておけ」
自分の身は自分で守れ、ということか。僕のような庶民は、ただの道案内でしかないとでも言うつもりだろうか‥‥。
その思いが顔に出ていたのか、マリナさんは、
「なんだ、その態度は。私が心配して言ってやっていると言うのに」
プイとそっぽを向き、先に進んで行ってしまった。
「‥‥どうでもいいけどさ、『お前』じゃなくって『ジル』と呼んでよ」
マリナさんは足を止めた。こちらを振り向く──心の底から驚いた表情で。
「庶民にも名前があったのか!?」
思わず足を踏み外しかけた。
「当たり前だろ!」
「てっきり『村人その一』『その二』とか呼び合っているものとばかり思ったぞ。いや、旅というのは勉強になるな」
‥‥男だったら、殴ってる。
「よくぞ教えてくれた‥‥ジル。よし、褒美をとらせよう」
また金貨を一枚取り出し、僕の手に握らせる。馬鹿にされたような気がした。僕はそれを乱暴に突き返した。
「いらないよ、こんなもの」
「お金はいらぬのか。では何が欲しい。私の体か?」
今度は本当に足を滑らせてしまった。
「‥‥かっ、体って‥‥」
「旅をしていると様々な知識が耳に飛び込んでくる。よくわからぬが、なんでも女の体というのは売れるそうだな。しかも使い減りがしないらしく、何度でも再販売可能ということだ。いったい何に使うのだろうか」
ふと疑問がかすめた。もしかしたら彼女は、意図的に僕の怒りをはぐらかしているのかもしれない。いったんそう思うと、彼女の美貌まで裏に何か秘めているようにも見えてくる。 僕はわざと強い調子で言った。
「マリナさん。そうやって何でもお金や物で解決しようとする考えはよくないと思う」
マリナさんの顔が曇った。上目遣いに僕を見る。
彼女自身は気づいていないのだろうが、その仕草はゾクリとするほど色っぽかった。
「金も物も欲しくはないのか、ジルは。──私の感謝が受け取れぬと言うのだな」
「そんなことは言ってないよ」
「しかし、私は金の他に何もジルにやるものは持っていない‥‥。昔、私の家の庭によく遊びに来た野良猫がいたが、餌をやらなくなったらもう来なくなってしまった。ジル、お前は私の知らないことをたくさん知っている。これからも私に教えてほしいから金をやるのだ。なぜ受け取らない。お前も私から逃げていってしまうのか?」
吸い込まれそうに綺麗な瞳の端に、涙が浮かんでいるのが見えた。見てしまった。
僕は自分の勘違いを悟った。
マリナさんはきっと、外見よりも子供なのだ。
「お金なんかもらえなくたって、僕にできることなら何でもしてあげるよ。マリナさん、『ありがとう』の一言だけのために動く人間もいるんだ」
「‥‥そういうものなのか。わかった」
マリナさんはこれまた高級なハンカチで涙をぬぐうと、真顔で言った。
「ありがとう、ジル」
予想以上に素直な反応だった。と思っていると、マリナさんは傍らの茂みに声をかけた。
「目にゴミが入っただけだ。ジルは悪くない。余計な真似はするな」
茂みがガサリと揺れ、黒い影が一瞬見えたかと思うと、すぐに消えた。
「この間も、私にぶつかってきた男が半殺しにされた。ジルも危うくそうなるところであったぞ。気をつけろ、と言ったろう?」
あれは‥‥黒服たちの『敵』にならぬように気をつけろ、という意味だったのか‥‥。
やっぱり、嫌味の一つも言いたくなった。
「あの人たちもさ、忠義というのもあるにしろ、結局お金で雇われているわけだろ? 僕の姉さんを助けてもらおうってのにこんなことを言うのも何だけど、あの人たちを君の一存で余計な危険にまきこんでいいのかい。それは、金にものを言わせたやり方じゃないか」
マリナさんは不思議そうに僕を見た。
「たかがお金で人が救えるのなら、安いものであろう?」
胸を衝かれる思いがした。
「‥‥まあ、その『たかがお金』が出せぬのが庶民だからな。しかし私は金を持っている。それだけだ」
マリナさんはまた山道を上りはじめた。
僕は確信した。彼女は違うのだ、僕らが金持ちと聞いてイメージするようなケチな根性の主とは。マリナさんは、お金で買えないものがあることを知っている。お金より大事なものがあることを知っている。もしかしたら、人一倍それらにこだわり、求めているのはマリナさん自身かもしれない。
前を歩くマリナさんの背を見ていると、僕には──彼女がなまじ裕福すぎるばかりに、それらから隔てられてしまっているように思えてならなかった。
世の中には、お金や物でしか自分の気持ちを表せないような、不器用な人がいるのだ。
* *
僕も盗賊のアジトを正確に知っているわけではなかったが、奴らがいるとすればここしかない。つまり、山中に築かれた昔の城砦跡だ。近づいてみると、やはり外に見張りが立っていた。
「ジル、盗賊たちは全部で何人だ」
「せいぜい五、六人だと思うけど」
それを聞くと、マリナさんは何の警戒もせずに砦に向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっとマリナさん。夜を待つとか、せめて作戦を練るとかしてから‥‥」
「おい、そこの者!」
僕には耳も貸さず、マリナさんは大声を上げた。当然のことながら、見張りがこちらに気づいた。昼間、村で会った盗賊だった。
「こ、このアマ、こんなとこまで!?」
「お前にも名前はあるのか? あるならば聞いておいてやる。言ってみよ」
「お、俺の名はザータだが」
完全にマリナさんのペースに呑まれている。
「よし、ザータ。疾く他の盗賊どもを呼んでこい。呼んでくれば褒美をやる。金がよいか、それとも『ありがとう』がよいか?」
「‥‥ふ、ふざけんじゃねぇ! 言われんでも呼んでやらぁっ! ボス、変な奴らが来ましたぜ!」
なんだか、どんどん最悪の方向に話が進んでいるような気がする‥‥。マリナさんは何を考えているのだろう。
「何事だ、ザータ」
砦の中から五人の盗賊たちが出てきた。そして、その後ろに縛られて連れられているのは──
「姉さん!」
「ジル!」
「おっと、姉弟の再会のほうは静かにやってくれよ。俺はこの嬢ちゃんと話をしなければならないんでな」
ボスらしき男が前に進み出た。
「何か用か、おい?」
マリナさんはボスの足元に金貨の詰まった袋を投げた。
「その金をくれてやる。だからその娘を返せ」
「‥‥バカ言ってちゃいけないよ、嬢ちゃん。そういう交渉ってのはお互い対等の立場でするもんだぜ。俺らが嬢ちゃんを殺してしまえば、その金もこの娘も俺の物だ。それとも、それを止める手立てがあるってのかい」
「ないわけではないぞ。だが、なるべくなら手荒な真似はしたくないのだ。取り返しのつかぬ怪我は、いくら金を積んでも治らぬ」
「へえ、盗賊をおどすとは、いいタマだな」
「おどしではない。忠告だ。感謝せよ」
「そうだ、姉さんを放せ、この盗賊め!」
ボスは人を小馬鹿にするように、大げさに肩をすくめてみせた。
「口のききかたに気をつけろよ、ジル君。いずれ義兄さんと呼ぶようになる相手だぞ、俺は」
「冗談じゃないっ!」
「‥‥妻の実家とは仲良くする主義なんだがねー。残念だ」
後ろで手下の盗賊たちが囁き合うのが聞こえた。
「盗賊のくせに、女のことになると妙に真面目なんだよな、ボスは」
「折角さらってきたのに、紳士的に口説くだけだし‥‥」
僕の耳に届いたのだから、ボスにも聞こえたらしい。
「うるさいっ! お互いに深く信頼し愛し合い、周囲からも祝福されるようでなくちゃ、結ばれる意味がないだろ!」
ボスは空を見上げ、力説しはじめた。
「そう、いずれ俺は世界を股にかける大盗賊となり‥‥そしてアジトに帰れば愛する妻と子供たちがいて‥‥『お帰りなさい、あなた』『ただいま。ほら、今日のみやげはこの黄金の女神像だぞー』『やったねパパ、明日も荒稼ぎだ!』──」
「私の話を聞かぬか、愚か者」
マリナさんが冷たくボスを現実に引き戻した。
「交換だ」
「は?」
「私が代わりにつかまってやる。だから娘を放すがよい」
マリナさん!?
「いい気になっちゃいけないぜ、嬢ちゃん。確かにあんたは別嬪だが、俺はこの娘が好きなんだ。他の誰でも代わりにゃならないな」
「なるほど。金でも他人でも代えられぬというのか。その心あっぱれ、褒めてとらすぞ。‥‥だがしかし、それはこのジルと家族にとっても同じこと」
マリナさんはぽんと手を打った。
突然、姉さんを捕らえていた盗賊が地に崩れ落ちた。誰かが後ろに立っている。
「やれやれ、最初からこうすればよろしいものを‥‥年寄りを心配させないで下さいませ、お嬢様」
パドラム氏はするすると姉さんの縄をほどいた。
「なっ‥‥貴様‥‥!?」
「皆の者、出てきてもよいぞ」
『はッ、お嬢様!!』
たちまち二十人の黒服が盗賊たちを取り囲む。
「‥‥せ、正義が数にものを言わせるか、普通‥‥?」
「正しいことだから人が集まるのだ。卑怯でも何でもない」
盗賊たちはそれでも反撃のそぶりを見せたが、黒服にあっさり武器を叩き落とされ、降伏した。
マリナさんはゆっくり、地面にへたりこむ盗賊たちに近づいた。落ちていた金貨の袋を拾い上げる。
「私には、下賤の者を傷つける趣味はない」
袋の口を開け、下に向ける。中身がじゃらじゃらと盗賊たちの膝の上に散らばった。
「他人のを奪ってまで金が欲しいというお前たちの考えがわからぬ。金というものは、ありすぎても邪魔なだけだぞ。盗賊などいっそやめてしまえ」
マリナさんは厳しく言い渡した。
「これだけあれば、新しい生活を始めることができよう。ありがたく受け取るがよい。ほれ、早く拾え」
マリナさんがこちらを向いた。その目はこう語っているようだった。
──心がともなえば、お金も人を救う手段となると。
そりゃまあ、やってることは間違いではないけど‥‥あれだけの容姿をしているんだから、もっとしとやかな態度でやれば、いい場面なのに‥‥。
姉さんもマリナさんの行為に呆然としていたようだった。しかしすぐに我に返り、マリナさんのもとに行って頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
マリナさんはじっと姉さんを見ていたが、やがて黙って踵を返した。
「帰るぞ。私はもう用はない。この山にも、村にもな」
黒服たちとパドラム氏は一瞬で木々の間に姿を消した。
マリナさんはいつものように、僕らにかまわず歩きはじめる。
僕の横を通りすぎるとき、彼女はぼそっと何か言った。それは例によって熱のこもらぬ口調だったが、僕ははっきり聞いた。
「──『ありがとう』と言われることの効果が、少しわかったような気がするぞ、ジル」
* *
僕は懸命に走っていた。まさかとは思っていたけれど、姉さんを連れて村に帰ったときには、先に山を下りたマリナさんはすでに村を発っていたのだ。何も言わずに。
彼女は『さよなら』という言葉も知らなかったのかも知れない。全てを持っていながら、孤独な少女。そもそも誰かとの『出会い』というものさえあったのかどうか。
僕は、あの寂しそうな小さい背中を思い出した。
どれぐらい走っただろうか。街道の坂を登り詰めたとき、その背中を見つけた。
大きく息を吸い込み、叫んだ。
「マリナさん!」
坂の下でマリナさんが振り向いた。マントの下で、服を飾った宝石が陽光にきらめいた。そして、それがかすんで見えるほど、マリナさんの綺麗な顔は明るく輝いていた。
──けれどもそれは一瞬のことで、彼女はまたすぐ無感動な表情に戻ると、そのまま僕に向かって坂道を戻ってきた。
「どうした、ジル? 何かまた言いたいことがあるようだな、その顔は」
「あのさ、マリナさん。こういう時は出発する前に何かすることがあるだろ?」
マリナさんは小首をかしげ、それからまたしても金貨を取り出した。
「そうだったな。それは餞別だ。遠慮なく取っておくがいい」
「だから、そういうことじゃなくって……」
「ああ、もういい、わかった。お前の言いたいことはわかっている」
マリナさんは素っ気なくそう言うと、クルリと僕に背を向け、歩き出した。
彼女でも照れることがあるのか、いつもよりいっそう早足だ。
「機会があれば、もう一度通りがかることもあろう。──またな、ジル」
そこで止めておけばいいのに、例によってマリナさんは余計な一言を付け足した。
「それまで、庶民らしく素朴で達者に暮らしておけよ」
―終―